オリジナルノベル 約束

蝉の声が聞こえる。たくさん、聞こえる。
聞きたくないのに、聴覚は勝手に蝉の声を捉えてしまう。
頭から離れない、蝉の声。
紅い夕日が、世界を血のような朱色に染め上げる。
その日はとても暑くて、じわりと湿った空気がとても気持ち悪かった。
目の前には1人の少女が居た。僕の足元に崩れて、静かに泣いていた。
僕はどうすることもできずにその少女をただ見ているだけだった。
僕は弱いから。ただ、何もできずに見守ることしかできない弱い人間だから。
悔しかった。何もできない自分が。情けなかった。
好きな少女1人助けられない自分が、弱いくせに一人前に人を好きになる自分が、
とても情けなかったんだ。嫌いだったんだ。
だから、僕はその泣いている少女を前にしても、ただ情けない顔をしたまま、
無能のように立ち尽くすしかなかったんだ。
僕は、どうすればいいんだろう―――


- プロローグ -


「―――ぅ介! 庸介!!」
朝。誰かに名前を呼ばれたような気がして目を覚ました。
先程まで嫌な夢を見ていたようだが、どんな夢だったかは覚えていない。
「んぁ・・・今、何時だ?」
「もう12時よ。いつまで寝てるのよ、ほら起きなさい!」
目の前で、五月蝿く言う女性。
まだ、覚醒しきれていない頭で、それが誰か確認する。
「相変わらずうるさいなぁ、薺は。」
飛揚 薺。幼馴染であり、幼稚園、小中学校と高校と全て一緒のクラスという、
単純に言えば腐れ縁というやつだった。
次の瞬間、僕の顔面に雑誌がスパコーンという擬音つきで叩きつけられる。
「誰のために来てやってんのよ、誰のために!!」
半目で笑う薺に僕は言ってやる。
「んぁー、そんなん頼んでないよ僕。」
今度はスリッパが頭を直撃した。
心地好い音が部屋に響き渡る。音だけだが。
「痛いなぁ。」
「なんであんたはいつもそう・・・」
スリッパで殴られて眠気が覚めると、僕はあることに気付いた。
「って、薺がなんでこの部屋に居るんだよ!」
そう、薺が知っているはずがない。今日、僕がこの部屋に居ることに。
何せ大学の長期休暇で下宿先から帰ってきたのが昨夜遅くなのだから。
帰ってきたと同時にベッドに潜り込んですぐ寝たのだ。
「え? あぁ、アンタのおばさんに世話頼まれたのよ。」
「母さんに?」
「そ。今日から温泉行くらしいわよ。」
「はぃ?」
滅多にない息子の帰省だというのにこれだ。全く、うちの親は。
「はぁ、庸介みたいな息子持ったおばさんが不幸に思えてくるわ。」
薺が顔を抑えながら溜息と共にそんな台詞を吐き出す。
僕からしてみれば、この状況が最も不幸なわけだけど・・・。
流石に大学生にもなって幼馴染に面倒みられるというのも格好がつかない。
「それじゃ、後は自分でやるし薺は帰りたかったら帰っていいよ。」
「え、あそう。」
薺はそう言うと、窓の外を眺めた。
そういえば、今僕の部屋はクーラーが効いている。昨夜はつけなかったから、
朝に薺が来た時にでもつけたのだろう。
「あー、外暑いか?だったらしばらく僕の部屋に居る?」
「え? あぁ、いいよ別に。そのかわりなんだけど・・・」
「?」
「今日、昼から街に買い物でも行かない? ほら、久しぶりに会ったんだし。」
窓から街を眺めていたら行きたくなったのだろうか。
しかし今日はもう予定があって無理だった。キャンセルできない大事な予定があるのだ。
「ごめん、今日は無理なんだ。明日なら大丈夫だけど?」
「あーやっぱ無理か。ならいいよ、気分で言ってみただけだから。」
「なんだよそりゃ。」
そういえば、薺はいつもこんな感じだった。小さい頃から。
普段は強気で、性格も大雑把なのだが、控えめな部分をたまに見せる。
普段が普段なだけに、それが彼女の弱気に見えてしまう。・・・錯覚だろうけど。
「さて、それじゃ私はそろそろ帰るわ。」
そう言いながら、薺はドアノブで手をかける。
ドアが開いた瞬間、凄まじい熱気が部屋に入ってくる。
この時点で、部屋から出る気力が5割は減ったような気がする。
「あ、そうそう。居間に朝食用意しておいたから、傷まないうちに食べなさいよ。」
「あい、了解ー。」
僕は右手を額の方へ持って行き、敬礼のポーズをしながら適当に返事をしておいた。

◆

薺が帰った後、僕はジーパンにTシャツというラフな格好に着替えて居間へ向かった。
居間のテーブルの上には、黄身が2つ乗った目玉焼きとポテトサラダが皿に盛り付けられていた。
朝食の残り物だろうか? いや、そもそも今が昼なだけで元々は朝食として作ってくれたのだった。
見たところ目玉焼きはもちろんのこと、ポテトサラダまで手作りだ。
(相変わらず、手が込んでるよなぁ。)
うちの母親は旅行好きで、中学の頃はよく薺が食事を作りに来ていたのだが、
その頃から薺は料理が上手かった。おまけに手も込んでいる。
僕は椅子に座ると、ポテトサラダを一口食べる。
「うまい。」
自然と、そう声が漏れてしまうほどの美味しさだった。

食事を終えて、家を出たのは丁度午後2時のことだった。
歩いているだけで額に汗が滲んでくる。
最近、良くニュースで猛暑という言葉を耳にする。
どうやら今年の夏は記録的な猛暑らしい。確か10年ぶりだったか、それとも20年ぶりだったか。
街の小さな家電製品店の前を通り過ぎようとした時だった。丁度、ガラスの向こう側に置かれた
テレビには天気予報のお姉さんと日本の地図が映し出されていた。
大体で僕達の街がある県を見てみる。気温は―――39.6度。
頭がおかしくなりそうだった。僕は一瞬立眩みのようなものに襲われる。
空を見上げてみると雲ひとつ無い蒼い空は果てなく続き、
太陽はこの暑さに参っている僕達人間を嘲笑うかのように容赦なく照らし続けている。
人間は太陽がなければ生きていけないのはわかっているが、消せるものなら消したい気分だ。
雨の降る気配は当然ない。まぁ、今日は雨が降らない方がいいのだが。
こんなに暑い中を目的もなしに歩いているわけじゃない。今日は予定が・・・
大事な約束があるのだ。といっても約束の時間までにはまだ数時間はある。
僕はどうしようかと考え、一度周囲を見渡した。丁度近くにあったのは―――
ファーストフード店、電気屋、それにゲームセンター。ここから少し歩けばこの街で一番大きな
デパートもあった。
そして、更に少し歩けば―――
(そうだ、久しぶりに海でも行ってみるか。)
僕の街は海に面していた。進学する前、まだ僕がこの街で学生生活を送っていた頃、
よく友達と遊びに行ったものだ。
特にこんなに暑い日は週に5回くらいは行っただろう。
考えがまとまり、歩き出そうと一歩踏み出した時だった。
「壱畝? お前、壱畝か!?」
と後ろからそんな声が聞こえた。壱畝。そんな珍しい苗字は中々に居ない。となると、僕の事だろうか?
僕は声がした方を振り向く。そこには、こんな暑いのにも関わらず黒いスーツを来た若い男が立っていた。
黒いスーツはかなり高級そうだったが、その下に着ているカッターシャツはズボンからだらしなく出されていて、
ボタンも第二ボタンまでは外されていた。首元には太陽の光に反射する銀色のシルバーアクセサリー。
髪の毛は赤茶色に染まっていた。社会人だろうが、どこか出来の悪い高校生のようにも見える。
そして何よりもショックだったのは、その男が僕の知っている男だったということだ。
とりあえず他人のふりを・・・目を逸らしてみる。
「あ、テメェ! 今目ぇ逸らしただろ!!」
男は街のど真ん中で賑やかに騒いだ。行きかう人々全てが僕と男の方を見る。
は、恥ずかしい・・・。
「あー、わかったわかった。謝るよ。久しぶりだな、晃。」
これ以上ここで騒がれても困る。とりあえず会話を進めて奴、瀬川 晃を止めなければ。
「ったく、お前帰ってきてたのかよ。それならそうと連絡ぐらいしてこいっての。」
「あぁ悪りぃ、昨日帰ってきたばかりだったから。」
そう言いながら、晃に近づいた時だった。晃が茶色い封筒を持っていることに気付く。
気にしていて僕がその封筒を見すぎていたのか、その視線に気付いて晃がその封筒をヒラヒラとさせる。
「あ、これ? いやぁ、上司に届けてくれって頼まれてんだわ。」
「ふーん。・・・真面目に仕事してるんだなぁ。超意外だよ。」
「それは誉めているのか?」
「そういうことにしとこうか。」
苦笑しながら聞いてくる晃に僕は笑顔で答えてやった。
「それより、海にでも行ってゆっくり話すか?」
晃の口から思いもよらない台詞が出た。今、仕事中なのではないのかお前は?
「いいのか?」
「ああ。届けるのは夜でもいいらしいから。俺もこれ届けたら直接家に帰る予定だったしな。」
「わかった。僕もちょうど海に行こうと思ってたんだ。」

そうして僕と晃は海へと向かった。
街の中心部から、大体20分ほど歩いた所に砂浜がある。
夏なので、人でいっぱいかとも思ったが案外そうでもなかったようだ。
だいたい5,6グループほどしか居なかった。
昔からそうだ。街が近くにあって、海も綺麗で、なのに海水浴客は殆ど居ない。
この季節よくテレビで海水浴客が溢れかえる砂浜を見るが、ここはそんな光景とは無縁な場所だ。
「ほい、コーラでよかったか?」
砂浜に座ると、後ろから晃の手が伸びてきた。その手にはお馴染みの赤い缶が握られていた。
「あ、サンキュ。」
それを受け取ると、プルトップを引いて中身を喉へと一気に流し込んだ。
丁度喉が渇いていたところだったのだ。水分と炭酸の刺激が喉に心地好い。
「ふぅ。しかし、久しぶりだよなぁー。」
そう言いながら僕の隣に座る晃。その顔は、どこか疲れているようにも見えた。
いつも明るく振舞っているが、その内面は悩みでいっぱい。そういう奴なのだ。
ここからは僕の想像だが、晃はその外見からもわかるように高校の時は不良という部類に入る奴だった。
まぁ不良といっても煙草を吸ったり喧嘩したりと、そんな典型的なものではない。
毎日のように遅刻し、テストの点数は下の下。親しい友達といえば僕や薺くらいしか居なかっただろう。
高校の頃から、周囲に溶け込めずに過ごしてきた晃のことだ。
この社会という厳しい環境下でうまくやっていくには相当の苦労も必要なのだろう。
だが、そうやって苦労しても、やっていけている晃を僕は素直に凄いと思った。
「どうしたんだよ、俺の顔じろじろ見て。なんか気持ち悪いぞ?」
「いや、苦労してんだなぁーと思ってさ。」
「あ、分かるか? そうなんだよー! もう上司がとんでもない奴でさぁー」
恐らくとんでもないのは晃の方だと思うがそこは黙っておく。

どれくらい話しただろうか。空になった缶を握り潰しながら、僕は遠くの水平線を眺めていた。
色々な事を話した。高校卒業し、就職してからの晃の苦労話や世間話。
僕が通う大学での出来事や、悩みとか。
晃は腕時計を見て、「もう3時半か。」と呟いた。この暑い中、よく話ができたと我ながらに思う。
特に晃はスーツという重装備だ。見かけは少しだらしないが、これも社会で身に着けた我慢強さというわけだ。
「そういやぁ、この前薺に会った。」
晃が遠く水平線を眺めたまま、そう言った。珍しくとても真面目な声で。
そう、晃にとってはとても重要な事だろう。ずっと、薺が好きだった晃にとっては。
「あいつ言ってたぞ。またみんなでどっか遊びに行こう、ってな。」
「え、あ・・・うん。」
「で、どうなんだよ?」
「え? どうって・・・」
「そういえばお前、昨日帰ってきたって言ってたけど、薺にはちゃんと連絡したのか?」
うーん、あれは僕が連絡したんじゃないんだけど・・・。
「あー、会ったよ今朝。うん。なんか母さん旅行行っちゃったみたいでさ、朝食作りに
来てくれてたみたいだった。」
「そう、か。」
「うん・・・。」
そしてしばらくの沈黙。僕には分かっていた。この話は、晃にとってとても辛いこと。
だから僕はあえて何も言わなかった。なのに、晃は尚も続ける。
「お前さ、ちょっとは薺の事も見てやれよ。」
「え?」
「いや、そのさ。お前が大変なのもわかるんだけどさ・・・」
「・・・。」
「やっぱ、見てられねぇんだ。わかってんのか? あいつ、高校の頃からお前のことずっと好きなんだぞ?」
そんな事、とっくに知っている。
わかっている。僕だって、薺の事は嫌いじゃない。でも・・・
「ごめん。」
「っ、壱畝!」
晃は僕の名前を叫んで、睨んだ。
わかっている。晃がこうやって怒ってくれているのは僕の、そして薺のためなんだということ。
でも、それだけはできなかった。
「ごめん、仕方ないんだ。僕にはできない。僕はあの子を待つって決めたから。」
「なんで、なんでだよ! なんでそんなにまで意地張ってんだよ! もう・・・帰って来るかもわかんねぇんだろ!!」
「・・・。」
「・・・。」
すぅっと二人の間を爽やかな潮風が吹き抜ける。そして、波の音が静かに聞こえてくる。
どこか、遠い場所からカモメの鳴き声も聞こえてきた。
砂浜には他にも人はたくさん居るはずなのに、まるで僕達の周囲だけ時間が止まったように静寂が訪れる。
先程までの穏やかな会話が嘘のような、陰鬱な雰囲気が場を包む。
「・・・悪りぃ、言い過ぎた。」
その沈黙に耐え切れなかったからだろうか? いや、晃の事だ。本当にそう思ったのだろう。
違う。晃が謝る必要なんてどこにもなかった。全て晃の言う通りなのだから。
2年前、僕が高校3年の2年前、ある人と約束したのだ。1年後、再び僕達は再会すると。
今こうしてここに居るということは、その1年後の再開という約束は果たされなかったわけだが。
僕は今もこうして待ち続けているのだ。来るかどうかもわからないあの人を。
そして今日がその約束をした日から丁度2年目になるのだ。
「いや、いいよ。晃が言う事、正しいよ。」
「お前・・・」
「でも、僕は信じているんだ。あの子の事。絶対会えるって。だから待ってるんだ。ずっと、ずっと。」
「・・・わかったよ。ったく、相変わらず頑固だよなぁ、お前って。」
晃は再び水平線を眺めた。とても小さくなった船の陰が何隻か見えた。
海は太陽光を反射し、宝石を散りばめたかのようにキラキラと光り輝いていた。
「でもな・・・」
「?」
「これだけはわかってくれ。薺は今もお前の事、見てるんだ。ずっと、お前があの子を見ているように、
薺も見てるんだよ。お前を。・・・今はいい。お前が待つっていうんなら、待てばいいさ。
だけど、もし彼女が現れなかった時、いずれお前は他の女と恋に落ちて、結婚するんだろ。
その時に薺の事、好きになっても俺は責めない。責めないから・・・
だから、あいつの事も少しは見てやってくれよ。」
やっぱり、晃はいい奴だ。高校時代から、周囲のクラスメイトや教師達は晃をただの『不良』として見てきた。
常識に溶け込めないイレギュラーな奴だと、そうやって周囲から見られていた。
だけど、僕が晃と親友になったのは、こいつがとても気の合う奴で、いい奴だったからだ。
今、こうして話していても改めて思う。僕は、晃と友達になれてよかったと。
僕は晃に一言短く答えた。
「ああ、わかったよ。」

晃と別れたのは4時頃だっただろうか。
「それあじゃぁ、学校、頑張れよ。」
「お前こそ。仕事サボるなよ。」
「ははは、了解だ。」
そして互いに軽く握手を交わし、僕は今、街のファーストフード店に居た。
建物の最上階、3階の窓際の席でチーズバーガーをかじりながら外を眺めていた。
店内の壁にかけられた時計は既に5時になりかけていたところだ。
真夏なので、あと2時間くらいは外が明るい。だが時間が経つにつれて街に仕事帰りの人が多くなる。
さすがに夏休み真っ最中ということもあり、学生服を着た少年少女は少なかったがそれでも数人はみかける。
おそらく部活か、補習授業でもあったのだろう。
仕事帰りであろう人達の顔を、チーズバーガーをかじりながら観察する。
とてもつまらなかった。見る人見る人全員が無表情。まるで感情のない人形のように、ただ歩くだけ。
晃や薺と同じ人間とはとてもじゃないが思えない。次に、数少ない学生を見てみる。
友達とグループになって帰る少年2人と少女3人。その顔は笑っていた。お互いに色々喋っているようだ。
笑顔笑顔・・・グループの全員が笑顔だった。でも知っている。それが偽りの笑顔だということを。
自分が学生時代だった頃の事を思い出す。
友達と笑い合い過ごした日々。僕達はいつも笑っていた。でも、それは外面だ。
誰もが必ず1つは悩みを持っている。常に悩んでいるのだ。苦しんでいる。
その苦しみを隠すために僕達は笑うのだ。
確かに、本気で笑う事もあったかもしれない。
でも、本当は苦しみを隠すために、苦しみから逃れるために、
機械的に笑っていただけなんじゃないのか。笑って自分に言い聞かせるんだ。
「僕は強いぞ。」と。「僕は悩みなんてないぞ。」と。僕はそう思う。
気付けば、チーズバーガーセットは完食していた。時計を確認する。
もうそろそろか。今から学校に行けば5時半くらいには着くだろう。

僕の母校の高校であるF県立S学園は、街とベッドタウンの境目にあたる少し小高い丘の上にある。
小高い丘、と言っても実際に昇れば結構な坂道である。普通に歩くだけで結構体力は吸い取られる。
そして坂を上りきった後に、短い竹林を抜けるといきなり学園の校門があるというわけだ。
まだ5時だというのに、竹林のおかけでそこは既に薄暗かった。
僕はそのまま校門を通過して職員室へと向かった。
ちなみにこのF県立S学園は、他の学校とは少し違った構造になっているため職員室は少しおかしい場所にある。
どのようにおかしいかというと、職員室の4方向が他の部屋に囲まれているのである。
東は保健室、西は給湯室、南は家庭科室で北が校長室といったふうに、囲まれているのだ。
つまり職員室に入るには校長室以外の3つのうちのどれかの教室を通過しなければならない。
とても不便というか便利というか、なんとも微妙な構造なのだ。
「失礼しまーす。」
そう言って僕は給湯室のドアを開ける。大抵の生徒はこの給湯室を職員室への出入り口として使用している。
理由はない。ただ、通る人が多いので自然とそうなってしまったわけだ。
給湯室に入ると初老の男性が居た。やかんでお湯を沸かしているようで、
ガスコンロの上に置かれてあったやかんと睨みあっていた。
初老の男性の名前は木村さん。僕達が高校1年の時・・・いやもっと前からこの学校に居る用務員さんだった。
もうそろそろ定年退職してもいい歳に見えるくらいだ。
木村さんは僕の顔を見るなり、表情を変えた。それはとても嬉しそうに。
「おや、お久しぶりです。確か、壱畝君だったかな?」
何も考えずにすっと名前を言えてしまうところが凄い。そう親しくないと普通は忘れてしまうと思うが。
「ええ。お久しぶりです木村さん。」
「大神田さんなら職員室に居るよ。」
そうだ。僕は恩師でもある大神田 沙紀先生に挨拶に来たのだ。しかし・・・
「わかるんですか?」
「はっはっは、君は学生の頃から彼女と仲が良かったからね。なんとなくわかるさ。」
むぅ、おそるべし木村さん。
実際、学生時代、僕と大神田先生はよく一緒に話したりしていた。僕だけじゃない。
晃や薺もそうだ。大神田先生は子供のような大人で、どこか普通の教師達とは違った。
僕は給湯室を抜けて職員室に入った。
「失礼します。」
昔の机の位置が変わっていないとすると―――居た。
机の上で、「うーん」と唸りながら何やら悩んでいる女性が1人。
肩までの短い髪型に、四角い眼鏡。今は椅子に座っているから分からないが、
身長は女性にすれば175cmと化け物のようにでかい。
どうやら大神田先生は職員室に入ってきた僕に気付いていないようだった。
近寄ってみる。何やら机の上には白い紙が一枚置かれていた。
何が書いてあるんだろうと覗いてみると、それが何であるかすぐにわかった。
「あ、テストですか?」
「まぁねー。ったくなんで私がガキ共の勉強手伝わなきゃなんないのよぅ。」
ああぁ、あんた先生でしょ。
どうやら、夏休み明けの実力テストの問題文らしかった。
大神田先生は学園図書館の管理人でありながら、国語の教師でもあるのだ。
しかも、古典や漢文はさっぱりのようで現代文しかできないという教師かどうかも怪しい人だ。
「相変わらずですね。」
「ん? おぅぁ!? 壱畝じゃないの! 居たの!?」
そこで初めて僕が横に居ると気付く大神田先生。
机には乱雑に積み重ねられた書類や教科書、辞典などで一杯だ。
灰皿には煙草の吸殻の山ができている。缶コーヒーの空き缶なんかも2、3本転がっていた。
「苦戦しているようですね。」
僕が苦笑混じりにそう言うと、大神田先生はいかにも面白くないといった顔をしながら煙草をくわえ、火をつける。
「あぁ、もう最悪よ、最悪。」
「ははは。よければまたお手伝いしますよ?」
「んぁー、頼んだ。」
大神田先生は、テストの問題文を作るのが苦手のようで高校の時に一度頼まれた事があったのだ。
もちろん一年下の学年の問題だ。さすがに自分の学年の問題は作らせてもらえなかった。
しかし、まぁ生徒に問題作らせる時点で相当何かがねじれているわけで。
「んで。やっぱり来たわね。」
「え、あ、あはは。」
一瞬だが、大神田先生の鋭い目でそう言った。
大神田先生はやはり覚えていたのだ。今日の『約束』の事を。
僕は無理やり笑うしかなかった。
「全く、アンタって馬鹿が付くほど一途よねー。」
「そうですか?」
確かに、馬鹿なのかもしれない。
「そうだよ。ったく、あれだけあの子には関わるなって言ったのに。」
「あ、それは―――」
「放っておけなかった?」
「全てお見通しですね。でも、それだけじゃありませんよ。」
「好きだから、か。」
「まぁ、その・・・」
昔からそうだ。大神田先生に隠し事はできない。いや嘘がつけないと言った方がいいだろうか。
僕が馬鹿がつくほど正直だからなのか、それとも大神田先生が鋭いからなのか。
おそらく後者だとは思うが、殆ど見透かされている。
大神田先生は、煙草の煙を一気に吸ってそれを吐き出すと、まだ半分も吸ってないそれを
灰皿の端の方で火を消して、吸殻の山に乗せる。なんて危険な。
この学校が火事になれば恐らく第一に疑われるだろう大神田先生は、腕の時計を眺めた。
「んーと、何時?」
おそらく、約束の時間を聞いているのだろう。僕は「6時48分です。」と答えた。
今の時刻は5時40分。
「ふぅ、あと1時間はある、か。どうする?」
腕時計を見せながら僕に聞いてくる。ここで大神田先生と時間まで話すのも悪くないが、
僕は早めにその「場所」に向かうことにした。
「すみません。それじゃ、僕行ってきます。」
「そ。ならこれ持って行きな。」
そう言って大神田先生は僕の方に何かを投げた。その「何か」を受け取った時に金属の擦れ合う音が聞こえた。
鍵、だ。
「教室、鍵閉まってるからね。これないと入れないよ。」
「ありがとうございます。」
「ふぅー。」
気付けば、大神田先生は2本目の煙草を吸っていた。いつ取り出して火をつけたんだあんたは。
心の中で突っ込んでいると、大神田先生が意味ありげな笑みと共に僕の顔を見る。
「な、なんですか?」
大神田先生がこういう顔をするのは、いつも何か良くない事を考えている時か人をからかう時だ。
「さてさて壱畝クン。彼女は本当に現れると思うかね?」
芝居がかった言い方でそう問いかけてくる大神田先生。
それは僕にもわからなかった。何しろ約束していた時期は丁度「去年」の今なのだ。
1年前の、今日6時48分。その時に現れなかった時点で、既に絶望的だ。
今日来ない可能性の方が遥かに高いだろう。
でも、何故か僕には素直にそれが受け入れられなかった。
当然と言えば当然か。僕はそれを受け入れられないんじゃない。受け入れたくないのだ。
しかし、それだけじゃない。僕は信じているのだ。必ず、会えると。
僕は教室に行く途中、ずっと先程の大神田先生の台詞を頭の中でリピートしていた。

『さてさて壱畝クン。彼女は本当に現れると思うかね?』

今日、この学校に来るまでずっと信じていた。朝、起きてからずっと。晃と話している時だって。
今日こそ彼女と会えると。それは確信に近かった。根拠の無い自信だが。
そして、根拠のない自信だったからこそ、先程のような簡単な質問で僕の心は不安になる。
簡単に心が揺れる。
しっかりしろ。僕がこんなんでどうするんだ。と僕は自分で自分に言い聞かす。
約束の教室に近づくにつれて、過去の事が頭の中で蘇る。
きっと彼女だって僕を信じているはずなんだ。僕を信じて、その日が訪れるのを待っているはずなんだ。
僕は、3年の扉の前に立つと、鍵を回して扉を開けた。
夏独特の湿った空気と、教室の臭いがむぁっと僕に向かってきた。
まるで僕が教室に入るのを拒むかのようだった。
しかし、僕はそれを無視して中へと入っていく。何もかもが懐かしかった。
当時は広かった教室も、今ではどうしてか狭く感じる。
おそらく大学の講義室が異常に大きく広いからだろう。
太陽も山の上に来ていた。今が一番綺麗な時間だ。
太陽の紅と太陽の紅が染めた朱の世界。教室が朱一色に染まり上がる。目が、痛かった。
そこで窓際の一箇所の席に目が止まる。そこが、「彼女」の席だったからだ。
僕はその机の面を優しく撫でた。段々と思い出す。
あの頃を。仲間と一緒に笑い続けたあの日々を。
たとえその笑みが偽りだったとしても、あの思い出だけは本物だ。
嫌な思い出も、良い思い出も。次々と僕の頭に浮かんでは消えていく。

そして、絶対に忘れられない運命の日の事も。

確か、あの日もこんな綺麗な夕日だった。

朱の世界。 蝉の声 泣いて、泣いて悲しむ少女。 そして、何もできずにただ立ち尽くす、自分。

あぁ、なぜだろう。思い出したら、急に胸が痛くなってきた。目が熱い。
涙だ。僕は、泣いている。あれから2年も経ったというのに、僕はまだ弱いままだった。
「あぁ、会いたい・・・会いたいよ―――」
独りでに、口からそんな言葉が漏れる。
僕はゆっくり目を閉じて、そしてその子の名前を呟いた。

「沙耶香・・・」


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