オリジナルノベル 約束

第1話

季節は冬。
見れば空には鉛色の雲がある。道路は雪で一面白。
ビルの屋上や家の屋根にも雪が積もり、街全体が鉛色と白色で統一される。
腕の時計を見れば時刻は午後4時半。ここは学校から帰る途中の通学路だ。
「はぁ。」
何故だが突然、口から深い溜息が漏れる。
今の気分を短く一言で言い表すのならば”憂鬱”だった。
それはこの天気のせいということもあったが、原因は他にある。
その原因は、今日の朝に遡る。

◆

朝、僕はいつものように目を覚ました。
体がだるい。とても重くて、まるで両手両足に10sほどの鉛が取り付けられているんじゃないかと思うほどに。
そして、妙に冷える。寒い。今は冬なので、寒いのは当然だった。しかし、この冷え方は―――
「・・・さぶっ!」
異常だった。暖房も何も効いていない朝の部屋は冷蔵庫状態と化していた。
カーテンを閉じているせいもあったが、部屋はまだ薄暗い。少し早く起きてしまっただろうか?
そう感じながら頭の上の目覚まし時計を手に取る。
「―――はぁっ!?」
時計を見た瞬間に、先程まで感じていた寒さなど吹っ飛んでいた。時刻は8時10分。
いつもなら家を出ている時間だ。
「な、なんでっ!?」
ベッドから飛び起きると、急いで制服に着替える。
「にゃ・・・にゃ?」
着替えている途中にベッドの下から泣き声が聞こえたかと思うと、トラ猫が顔を出す。
ベッドの下に敷き詰めた毛布の中から、顔だけをだして大きな欠伸を1回。
それは僕が飼っているトラ猫で名前は七雄という。
「ったく、遅刻しちゃうじゃないかー!!」
七雄の目の前に置いてあった皿に猫の餌を乱暴に入れるとそのまま机の上の鞄を手に取り居間へと向かう。
居間に行くと、テーブルの上には冷めたトーストが1枚と牛乳パック。
そして、隣にメモ書きがある。そのメモ書きには、母親の字でこう書かれてあった。

『突然お父さんの会社が休みになったので、二人で出かけてきます。』

どうりで起こしてくれないわけだ。
僕は冷めてパサパサになったトーストを無理やり口に押し込めると、これまた牛乳で無理やり胃に流し込む。
現在、8時15分。学園の校門が完全に閉鎖されるまで、あと15分しかない。
玄関で靴を乱暴に履き、ドアを開ける。そこで僕は再び驚愕した。
「な、な、な、なんじゃこりゃぁぁああ!!」
刑事ドラマのワンシーンのような叫びが玄関に木霊する。
世界は、白銀の世界と化していた。どうも冷えると思ったら、雪だったのか!
道路の色が見えなくなるくらいまで積もった雪。屋根に積もった雪。どこを見ても雪。
雪、雪、雪!
ということは―――
「自転車に乗れない!?」
普段はもちろん徒歩での登校だが、遅刻した時はやむを得ず自転車に乗って登校する。しかし・・・。
僕の体から嫌な汗がじわりと滲み出る。自転車は無理となると徒歩。
どう考えてもあの学校前の坂を上るのに5分はかかる。
つまり、坂のふもとまで10分でいくしかない。あぁ! 行けるか? 行けるのか!?
僕は腕の時計を見る。こうしている間にも時間は刻々と過ぎていく。残酷だ。
気合だ、気合を入れるんだ壱畝 庸介!
人生、元気があれば大抵の事は何でもできると、どこかの賢者だって言っていた。
「・・・ふ、ふふふ、おおお!!」
突然、僕の中で何かが目醒めた。(ような気がした。)
行けるのか? じゃない。行ってみせる! 僕は走り出す。
家の門を勢い良く飛び出す。
「ぬぅぁ!!」
いきなり滑りそうになった。あぁ、本当に辿り着けるのだろうか?
ところで、こんなにも僕が必死になるにはそれなりの理由があった。
その理由というのが皆勤賞。毎日学校に行くと貰えるあの皆勤賞だ。
僕達の通うF県立S学園の皆勤賞は何故だか知らないがとても豪華なのである。
図書券5000円。それが皆勤賞の内容だった。
3年間も頑張ってたったの5000円。そう思う人も多いかもしれない。
でも、僕にとっては見逃せないものなのだ。
というわけで朝から僕は図書券5000円のためだけにこの雪道を全力疾走で走っているのだ。
我ながらみみっちぃ男だ。
何度か転びそうになり、そして何度か車にひかれそうになり、僕はようやく坂の麓まで辿り着く。
「時間はっ!?」
腕時計を再度確認する。8時26分。やった! 間に合う!!
よかった。これで遅刻せずに済みそうだ。先程よりは速度を落として、
しかしかなりの速度で坂道を駆け上がっていく。
竹林の入り口が見えてきた、丁度そんな時だった。
見慣れた男の後姿を見つける。そいつは髪を赤く染め上げ、制服をだらしなく着ていた。
後ろからでもそれが誰か、はっきりと分かった。
しかも”そいつ”はこんな時間にも関わらず、肩に鞄をひっかけてトロトロと道端を歩いている。
あのスピードでは確実に遅刻だろう。
「こらぁー、晃! 遅刻するぞぉ!」
後ろから叫んでみる。と、晃がゆっくりとこちらを振り向いた。
分かっていた。こいつの脳内辞典に”遅刻”という単語が無いことなんて。
朝の挨拶代わりといった感じで声をかけたのだ。
「おぅ、壱畝。珍しいじゃねぇか、お前がこんな時間に。」
「寝過ごしたんだよっ! んじゃ僕はもう行くから!」
そう行って晃の隣を通過した時だった。

―――殺気!!

僕は感じた。奴の殺気を。いや、正確には見たのだ。隣を通過する瞬間の奴の表情を。
不穏な笑み。それはまさに―――殺気!
「甘いぜぇ、晃ぁ!」
僕は走りながら後ろを振り向き、臨戦態勢を取る。が、しかし―――
「何っ!?」
そこに奴、瀬川 晃の姿は無かった。変わりに奴の肩にかけられていた鞄が僕の腹を直撃する。
「ふははぁっ! 壱畝 庸介敗れたりぃっ!!」
その言葉が聞こえた瞬間、僕は羽交い絞めにされた。
あぁ、終わった。何もかもが。
「は、離せぇ! 行かせてくれぇ!!」
「諦めろ、お前だけにおいしい思いさせるかよ。」
「ぬぉー5000円〜!」
晃を振りほどこうと色々な方向に身をよじるが、奴の体はがっちりと僕を捕らえて離さない。
「あぁー俺もうこの坂上るの疲れたよ。おぶって行ってくれぇー」
羽交い絞めの次はおんぶですか!
「や、やだよぉー! 離せぇーぇぇえ!!」
本気で晃を振りほどこうとした、次の瞬間。
「え―――」
僕の視界が大きく回転した。あまりにも強くふんばったため、足元の雪で滑ったのだ!
そして、僕が倒れるはずの目の前には―――

「ハークシュッ!! クシュッ!!」
2回連続でくしゃみが出た。それと鼻水。僕は保健室に居た。
「い、いやぁ、悪い悪い。まさかあんな所に溝があったとわなぁ。」
白々しい笑みで僕の肩を叩いてくる奴が隣に座っていた。
僕は思いっきり殺意を込めて、その隣に座っていた晃を睨んでやった。
「だ、だから悪いって言っただろ〜、溝はマジ知らなかったんだって!」
結局僕は遅刻した。被害はそれだけに留まらず、制服はもちろんのこと鞄の中に入っていたノートも水浸しだ。
テスト前で重要な事ばかりをまとめたノートが、一瞬にして水浸し。
しかも―――
「晃・・・」
「ん?」
「なんでお前は溝に落ちてないんだよっ!」
一番問い詰めたいのはそれだった。
しかしその問いに対しても晃は力無い笑みでこう答えた。
「・・・さぁ。」

「馬鹿じゃないの、アンタら。」
教室に戻った体操服姿の僕と晃の姿を見た薺の開口一番の台詞がそれだった。
どうやら保健室で着替えたりしているうちに1時間目は終わってしまったらしい。完全なる遅刻だった。
「ところで次の英語の授業、確か宿題あったわよね庸介?」
「あ・・・」
「お願い、見せてくんない? ちょっと忘れててさ!」
薺が顔の前で手を合わせ、「お願いー」と言った。
確かに僕はその宿題をやり終えていた。昨夜、寝る前にやったのだ。
しかし、今となってはその苦労の結晶もどこかの馬鹿のせいで水泡に帰してしまった。
「ごめん、薺。忘れてきちゃった。」
とりあえずそれだけ伝えておこう。嘘も方便、馬鹿でも犠牲者は少ない方がいいだろうから。
「あら珍しいわね、アンタが忘れてくるなんて。」
「あはは、まぁ、ね。ちょっと色々都合があって。」
最後に頭を掻きながら笑って誤魔化しておく。だが―――
そんな僕の気遣いさえもぶち壊しにするのが、馬鹿なのだ。
「お前ってやっぱ間抜けだよなぁ、鞄まで溝に持ってくこたぁないのに。」
晃がそう言って爆笑した。
「何? ってことはその鞄の中に・・・」
薺が僕の持っていた水浸しの鞄を指さした。
「あぁーまぁ、うん。当然ね。そういうこと。」
「本当、運が悪いよなぁ!」
「悪いのは・・・アンタだぁっ!」
「ほぐぁっ!」
薺の拳が晃の顔面にめり込んだ。
英語の教師は学園の中でも1、2を争うほどの鬼教師であり、
宿題を忘れた日にはどんな特別課題を課せられるかわかったものじゃない。
ちなみにこの日の特別課題は英語でレポートをまとめてくることだった。
その後もクラスの中で1人体操服で授業を受ける僕はとても浮いていた。

◆

そんなわけで、僕は間抜けにも体操服姿で放課後の通学路を歩いていた。
歩いていると自然に溜息が出る。あと3日と迫った期末テストに向けてまとめていたノートがお釈迦になったのだ。
この真っ暗な先を考えるだけで憂鬱になる。
今日は一日、雪は降らなかったものの天気はずっと、どんよりとした曇りといった調子だ。
もう一度、立ち止まって空を見る。今日、何度この空を見上げただろうか。
何度見てもこの空が変わるはずがないと分かっているのに、眺めてしまう。
(今日の夜も降るのかなぁ?)
そう思って灰色の空を眺めていると・・・
「あれ?」
何か冷たいものが顔に当たった。何故かとても嫌な予感がした。
こういう日に限って嫌な事は続くものだ。
僕は、その何かが当たった部分を指でなぞってみる。何もなかった。
(気のせい、かな?)
もう一度空を見上げた。気のせいでは、なかった。
「げっ・・・」
灰色の空をバックに、小さな雪の粒が視界一杯に入ってきた。
まだ道路や屋根に大量の雪が残っているというのに。この調子じゃ朝まで降ってもおかしくない降り方だ。
そこで自分が今、体操服を着ていたことに気付く。体操服の上にコートも着ていたが、やはり体操服だけでは寒い。
(早く帰らないと、いい加減風邪ひいちゃうよ!)
このまま走って家に帰れば5分もかからない。
「走ろう!」
そして第一歩を踏み出そうと、右足に力を入れた時だった。
「うぉっ!?」
いきなり僕の視界に空が入ってくる。あの鉛色の空が。でも、今度は違う。僕は見上げていない。
自然と僕の視界の中に入ってきたのである。
滑ったのだ。思いっきり。体が宙に浮いているのが分かる。わかるけど、どうにもできない。
宙に浮いていると理解した時には、既に自然の法則によって僕は背中から地面に叩きつけられていた。
「かはっ!」
一瞬だが息ができずに呼吸困難に陥る。そして、少し遅れて痛みが伝わってくる。
体も痛いけれども、内臓にじわじわと伝わってくる痛み方だ。これは最悪だった。
(きょ、今日は厄日だ、絶対・・・)
そう思って、しばらく道路に寝転がる。ここは住宅街の裏道で狭いためか、車が少ない。
更に今は雪が積もっているためか、歩行者や自転車も全く通っていなくて丁度僕しか居ない状況だった。
狭い道だが道路の真ん中で寝るのは実に気持ちいい事に気付く。
視界一杯に広がる空、体にまとわり付く雪。視界が空だけだと自分が飛んでいるような、そんな気分になる。
錯覚というやつだ。
しかし、そんな気分も直ぐに打ち消される。
視界の中に、顔が入ってきた。見たことのない少女の顔。
「・・・大丈夫?」
少女は静かにそう言った。
「あ、あぁうん。大丈夫。」
僕は体を起こす。少女はそれを見て何故か安心そうな顔になった。
「ん?」
立ち上がり、服についた雪を払いながら正面の少女を良く見れば、少女が着ているのは僕と同じ学園の制服だった。
「同じ、学校?」
僕が聞いてみると、少女は静かに肯いた。しかし・・・
腰まで伸ばした艶のある黒い髪がとても印象的だった。
すっとした鼻と薄い桜色の唇、顔はぱっと見でもすごく整っていて綺麗だった。
それは可愛いというよりも綺麗と表現した方がよかったかもしれない。
制服を着ていなければ、僕や晃より年上に見えてしまうだろうというほどに。
しかし、同じ学校だと知って疑問ができる。
(こんな綺麗な子、ウチの学校に居たっけ?)
同学年なら、他のクラスの奴も色々知っている。とすれば違う学年だろうか?
見れば少女は胸に何かを抱いていた。それは・・・白い毛玉だった。
「えっと僕は大丈夫だから、それじゃありがとう。」
それだけ言って立ち上がり、彼女に背を向ける。
せっかくの出会いであるが、一方で早くここから立ち去りたかった。
道路に寝ている男が1人。どう見ても変人じゃないか、恥ずかしい・・・。
いや、それ以前に僕は知らない人が苦手なのだ。普通の人よりも人見知りが激しいとでも言おうか。
晃や薺とは普通に会話できるが、他のクラスメイトともあまり話さない。
「あの・・・」
「はぃ?」
何故か突然の呼びかけに、変な声を出して振り返る。
「・・・。」
「・・・。」
お互いが黙っている。奇妙な沈黙。あぁ、だから僕は知らない人と会話するのが苦手なのだ。
やがて、沈黙を破ったのは少女の方からだった。
「ネコ。」
一言そう言った。ネコ・・・猫?
「猫?」
「そう、猫。」
彼女は僕に歩み寄って、胸に抱いている毛玉を見せた。
(まさか・・・)
そう思った時だ。

もそ。

毛玉が動いた。ああ、やっぱり。この白い毛玉は猫だったのだ。大きさから言えばまだ仔猫だろうか。
しかし、僕はある事に気付く。それは、彼女の腕の中で丸くなっている猫が少し動いた時だった。
猫には絶対ありえない赤い色の毛が一瞬見えた。しかもその赤い色はやけに黒く・・・血の色に似ていた。
よく見れば、彼女の制服にも、所々に血がべっとりついている。
「弱っているの。」
「・・・えぇ!? ちょ、ちょっと見せて!」
僕は彼女が抱いていた仔猫をそっと抱き上げて確認する。
仔猫の横腹に、深い傷があった。素人の僕が見ても致命傷になり得るくらいの。
これじゃぁ家に帰って簡単に消毒じゃ収拾がつかないだろう。
というか、この子は・・・
「君、獣医とか知らなかったのか!?」
普通この傷を見ればまず最初に獣医を探すはずだが・・・
彼女は静かに横に首を振る。どうやらわからなかったらしい。
僕の知っている動物病院は街にある。七雄をよく健康診断に連れて行っている所だ。
ここからなら、10分ほどで行けるはずだ。
「とりあえず病院に行こう、詳しい事はそれから!」
「うん。」

◆

「ふぅ、とりあえずこれでいいはずだよ。でも本当、奇跡だねあれは。」
隣の台で静かに眠る白い仔猫を見ながら獣医は感心したように言った。
見れば、仔猫に白い包帯が厚く巻かれていた。
「じゃぁ・・・」
「あぁもう大丈夫だ。しかし、怪我が治るまでは定期的にここへ連れてきた方がいいな。」
少女は今、外の待合室に居るはずだ。ここに来た時にその話を聞くと、
どうやら道に倒れている所をたまたま見つけて拾ったらしいのだが、
どうすればいいかわからず彷徨っているうちに、派手に滑って転んだ僕を見つけて声をかけたらしいのだ。
つまり、彼女はこの猫を拾ったのだ。なら―――
「あ、あの・・・この猫、誰が飼うんですか?」
「え?あの子の猫じゃないのかい?」
あの子・・・あの少女の事だろうか。しかし、それは全く違う。
「どうやら彼女、道で拾ったらしいんですけど・・・」
「え、そうだったのか? 参ったなぁ・・・」
獣医は困ったように頭を掻いて言った。この様子だと、病院側で引き取るということも難しいのだろう。
「実は最近、やたらと捨て猫や捨て犬が増えてきてねぇ、この病院でも数匹引き取って面倒みてるんだけど・・・」
「もういっぱいいっぱいみたいですね。」
診察室の向こう側、おそらくは獣医や看護士達の待機室の方で先程から犬や猫の鳴き声が
うるさいほど聞こえてきていた。
「そういうことだ。」
確かに病院であっても、動物を飼うにはお金がかかるのは一緒だ。
「・・・」
今、考えられる最善策と言えば・・・
「僕、飼いましょうか?」
「え?大丈夫なのかい?」
動物を飼う。それはとても大変な事なのだ。今、僕は猫の七雄を飼っているが実際に世話は凄く大変だ。
しかも、お金が凄くかかる。七雄は、僕が飼うと決めたので、餌代も僕が払っている。
おかげで月の小遣いが凄く減った。
「多分ですけど・・・親に状況を説明すれば分かってくれるとは思います。」
「うーん・・・なら、お願いするよ。」
「はい。」
「もし、飼えないようならまら来てくれ。なんとかして新しい飼い主を探してみるから。」

「それじゃ、ありがとうございました。」
「うん。それじゃまた3日後くらいにここに連れて来るんだよ。」
「はい、わかりました。」
そう言って僕は診察室を出た。時計を見れば既に7時近い。外もすっかり暗くなってしまったようだ。
(ま、この猫が助かったんだし、良しとするかな。)
彼女もこの知らせを聞けば喜ぶだろう。早く猫を見せてあげようと待合室へと向かった。
しかし・・・
「あれ?」
彼女は居なかった。待合室に居るのは、中年のおじさんだけだった。
そのおじさんは顔見知りだった。
「あ、こんばんわ鈴木さん。」
「お、おぉ、壱畝君かい。今日はどうしたの? 七雄クンに何かあったのかい?」
「いえ、今日は違うんですけど・・・」
鈴木さんの犬―――伸二郎がこっちを見てしっぽを振っている。
「すみません、ここに女の子居ませんでした? 髪の長い。」
「女の子? いやぁ、知らないよ。30分ほど前からここに居たけど私一人だけ。」
「そ、そうですか。」
トイレ・・・にしては遅すぎる。つまり、もうこの病院には居ないということなのだろうか?
「あ」
受付の人の聞けば早いだろう。受付の人はずっと一緒だったのだから。
「あのすみません。」
「はい?」
「えっとここに居た女の子、先に帰りました?」
「え・・・と、女の子?」
受付の人が顔を顰めて首を傾げる。それは、人が良く覚えていない時にとる行動だった。
「僕と一緒に来た子ですよ。」
「え、あぁ、壱畝君、私のことからかってるでしょ?」
受付の人は笑ってそう言った。からかわれているのはこっちの方だ。
確かに入ってきた時、あの子と2人並んでこの人と話したのに!
だが、受付の人は本当に知らないように言った。
「だって私、この病院に入ってきた時あなた見たけど1人だったし・・・」
その時だ。後ろから声をかけられる。
「あれ? 壱畝君、まだ居たのかい?」
振り返ると、先生が煙草をくわえながら歩いていた。仔猫の手当てをした先生だ。

『え?あの子の猫じゃないのかい?』

診察室での会話を思い出す。確かに先生はそう言っていた。なら、先生は知っているはずだ。
「あ、先生。女の子居ませんでしたかって、壱畝君が。」
受付の人が先にそう言った。本当に僕をからかっているのかわからないくらい自然に。
「先生は知ってますよね、あの髪の長い女の子!」
「・・・んん?」
先生は顔をしかめて顎に手をやる。まさか・・・
「女の子・・・? 居たっけ?」
僕は背筋がぞとなった。
おかしい。何かがおかしい。この病院の人、全員があの少女の事を覚えていないのだ。
まるで最初から居なかったかのように。
何故? 消えた? それじゃまるで幽霊じゃないか!
「あ・・・ははは、すみません、僕がからかってたんです。」
「あはは、なんだ。やっぱり。壱畝君って結構悪戯好きな方でしょ?」
受付の人はそう言って笑った。
一体、何がどうなっているのだろうか・・・。

◆

家に帰ると、朝から出かけていた両親も帰ってきていた。
突然だが、仔猫を見せて説明した結果飼ってもいいことになった。
説明した後、即決といってもよかった。しかも、この仔猫の餌代は親が出してくれるらしいから有難い。
麻酔のせいだろうか、仔猫は起きることもなく寝ている。
その仔猫の存在に気付いたのか、自室に戻ると七雄がベッドの下から出てきた。
どうやら七雄はベッドの下が気に入っているらしく、いつもそこで寝ている。
しかも七雄は普通の猫とは少し違い、全く外に出ないのだ。引きこもり猫である。
だから気のせいか最近少し太り気味なのだ。
七雄は仔猫に近寄って臭いを嗅いでいる。まるで犬みたいだ。
「起こしちゃだめだぞ。」
人間の言葉がわかるはずもないのに、ついつい喋ってしまう。
「にゃ。」
七雄が再びベッドの下に潜り込む。・・・本当はわかっているんじゃないんだろうか?
「・・・さて。」
僕はテレビをのスイッチをオンにして、椅子に座った。

『お前、それあかんやろ!』
『えぇー別にええやん!』

テレビには最近人気のお笑いタレントが出ていた。・・・あまり面白くない。
そういえば、最近のバラエティ番組はあまり面白くないものばかりだ。
リモコンを変える。

『ふ、貴様は俺に勝てない! 俺の首都高最速理論の前に平伏すのだ!』
『僕が一番上手くハチゴーを使えるんだっ!』
ピキュイーン! ドギャギャギャギャァ!
『な、何ぃぃ!?』

最近話題のアニメがやっていた。そういえば晃も見ているとか言ってたな。
少し見てみると大体の内容がわかってきた。
「焼どうふ屋すげぇ・・・。」
再びリモコンを変える。

『突撃、隣の心霊スポット! 今夜君は奇跡の瞬間を見る!!』

それは、季節外れの心霊特集だった。
夜の廃校やマンション、病院にカメラを置いて検証したりするお馴染みの番組だ。

『い、今何か動きました! カメラ、カメラ回してください!』
『あなたは気付いただろうか、画面左上の―――』

そういえば、あの少女は一体何だったのだろうか。
僕は、ベッドの上で眠る仔猫を見て、仔猫を飼うことになったきっかけを運んできた少女の事を思い出す。
幻か? それとも、僕の妄想? 違う。現にこうしてここに仔猫が居るじゃないか。
なら、あれは・・・

『これはやはり霊の仕業なのでしょうか?』

テレビの中で、リポーターがわざとらしく演技をして霊能力者に尋ねる。
これまた霊能力者も”いかにも”という感じの衣装。
普段の僕なら霊の存在なんて信じないだろう。でも今は違う。
そもそも、あんなに綺麗な人が学園に居ればわかるはずだ。
晃はよく、そういう生徒の写真を撮って(盗撮して)はクラスの男子に売っている。
以前僕も見せてもらった事はあるが、あんな子は居なかった。
「・・・あぁ、もう何が何だか。」
いくら考えても仕方なかった。僕はいい加減に考えるのを辞めることにした。
何故なら・・・
「テストどうしよぅ・・・」
そうなのだ。霊的なものよりも、もっと現実的な恐怖が僕を待っているのだ。
今回の期末は惨劇になりそうだ。

◆

翌日―――
「おはよー。」
「あ、庸介。おはよう。」
今日は遅れることなく学校に辿り着けた。制服も予備のものだが着ている。(昨日の濡れたのはクリーニング中。)
教室には数人のクラスメイトが既に登校していた。その中には薺の姿もあった。
普段、遅刻はしない薺だが、こんな時間に来るのも珍しい。
「今日は早いね。」
「うーん、なんかちょっと目が覚めちゃってね。ってかアンタいっつもこんな時間に来てんの?」
「うん、そうだよ。」
平日の朝はいつも決まって6時には起きる。ただ、休日は昼前まで寝るのが習慣になっていた。
「そ、それより薺、ちょっとノート見せてくれないか?」
「へ? ノート?」
「実は、昨日のアレでノートも・・・」
昨日の登校中の事故で失ってしまったノートを、僕は再びまとめることにした。
間に合うかどうかはわからないが・・・。勉強しないよりはマシというものだろう。
「あぁ、そうだったわね。・・・はい、これ。」
僕は薺からノートを受け取る。
その時だ。
「うぃーっす。」
教室に聞きなれた声が響く。ドアの所を見ればそこには晃が立っていた。
「・・・。」
「・・・。」
「お、どうした? 壱畝も薺も黙っちゃってさ。」
時刻は8時10分。コイツがこんな時間に来るのはまさに奇跡と言ってもいいくらいだ。
「こりゃ大雪も降るわけだわ。」
そう言って鼻で笑う薺。僕も同感だ。
「お前、一体どうしたんだよこんな時間に!」
「なんだよ、お前ら・・・俺にビビッてるのか? ふ、まぁ俺が本気を出せばこんなもんさ。」
これが普通なんだけどな。という突っ込みはあえて入れないとして・・・
「本当にどうしたんだ、お前。」
「んー、なんか朝からお袋に叩き起こされて漬物石運ばされたんだよ。おかげで朝からヘトヘトだ。」
僕と晃が話しいると、薺が何かに気付いたように声を上げる。
「ちょっと晃!」
「んー?」
「あんたいつまでドアの所で突っ立ってんのよ、後ろに誰か立ってるわよ。」
本当だ。晃の後ろに誰かの足が見えている。
スカートなので、女子か? ということは控えめな子が立ち塞がる晃に
声をかけづらくてずっと待ってるのかも知れないな。
だが、邪魔をしている当の本人は―――
「あははー、薺、俺がまだ寝ぼけてると思ってるだろ? だが、俺は騙されないぜ? 
今日は朝から頭が冴えているからな。お前の考えなんてお見通しさっ!」
まぁ・・・晃の言うこともわからなくもないが・・・。
「おい、晃。マジに人居るぞ?」
「へ?」
やっと納得したか・・・と思った僕が馬鹿だった。
「ふ、ふふふ、昨日の仕返しか、壱畝? みみっちぃ男だナァお前も。」
「ちっ、気付かれたか!」
ここは一応乗っておく。
「庸介も会わせなくていいから!」
薺の容赦のない突っ込みが後頭部に入る。あぁ、世界が揺れる・・・
「晃、アンタも早く・・・どきなさぁい!」
次の瞬間、ゴスッという鈍い音が聞こえたが何も聞かなかった事にしよう。
「あぁ、ごめんね、この馬鹿が。でも許してあげてね、こんな低脳でも頑張って生きてるんだから。」
「な、なにをぅ!」
再びゴスッという音が聞こえるが何も見なかった事にしよう。
「・・・。」
晃の後ろに立っていた人物が謝る薺を無視して、教室に入ってくる。
その人物を見て、僕は一瞬自分の目を疑った。
まさに昨日の少女、その人だったからである。
「あ・・・」
声をかける前に彼女はこちらには目もくれず自分の席だろう場所へ歩いていった。
「・・・」
「あれ? どうしたの、庸介。」
僕の様子に気付いて声をかけてくる薺。
「なぁ・・・あんな子、居たのか? 僕達のクラスに・・・」
「へ? あぁあの子? 名前なんてったっけなぁ・・・確か、柳原さんだっけ?挨拶くらいしてもいいのにね。」
柳原・・・そんな苗字、初耳だ。
それどころか、僕のクラスと一緒だったなんて。
「ん、そういやぁそんな苗字だったな、そいつ。名前は・・・んー、思いだせん。」
「はっ、晃の小さい脳みそはクラスメイトの名前も覚えてないのね。」
「な、何をぉー!!」
一応、薺にも聞いてみる。
「薺は知ってるのか? あの子の事。」
「へ!?」
突然の問い掛けに、素っ頓狂な声を出す薺。
どうやらこの様子では薺も知らないらしい。
「はー、なんだよ、人の脳みそ小さいとか言ってさ! 
薺も脳みそ小さいじゃん!ってか俺より小さかったりして――」
ゴスッ
「ごめん。私もあんまり話した事ないのよね。」
「あ、ならいいんだけど・・・。」
その柳原という名前の少女が妙に気になった。
昨日、放課後に会ったあの子は彼女だったのだろうか?
でも、あの柳原という少女は僕に目も合わさずに歩いていった。
ということは、やはり違う人物なのだろうか?

やがて一時間目の授業が始まっても何故か心が落ち着かず、授業の内容はあまり聞き取れなかった。

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