オリジナルノベル 約束

第2話

その日の授業の内容は何故だかあまり頭に残らなかった。
理由は・・・わかっている。朝、あの時柳原という少女を見た時からずっと彼女の事が気になっていたからである。
そうしてずるずると引きずったまま、今の4時間目に至っている。
教科書を読み上げる教師の声は永遠と続くお経のようで、
これまた規則的にカツカツと鳴り響くチョークが黒板を叩く音が眠気を誘う。
これが原因で眠くなる人は少なくないはずだ。そして僕もその1人だった。
段々と思考が鈍っていく中で、頬杖をつきながら柳原という少女の方を見てみる。
何やら彼女は教科書をじぃーっと眺めている。だけだった。眺めているだけなのだ。あとは置き物のように動かない。
晃は・・・まぁいつも寝てるからいいとして、薺は何やらノートにメモ書きを一杯している。
薺だけじゃない。クラス中の生徒がせっせと必死になってノートをとる中、彼女だけが教科書を見ているだけだった。
(テスト、余裕なのかな・・・)
そう思いながら、僕も黒板に書かれた数式をノートに解いていく。
やがて―――

キーンコーン―――

授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
緊張と静寂に包まれていた空気が段々と緩んでいくのがわかる。
「よぅし、今日はここまで。次の授業までに演習問題の問3解ける奴は解いておけ。」
それだけ言うと、教師も忙しく教科書や出席簿を抱えて教室を出て行った。
教師だって人間だ。休みたいと思うのは僕達と同じということか。
「ふぁー、やぁーっとおわったか!」
今まで寝ていた晃が目を覚まし、伸びをしながら言う。
「あんたまた寝てたでしょ。」
「へっ、テストが怖くて勉強だなんて男が泣くぜ。」
まぁある意味勇気ある行動だが、威張って言うことでもないだろう。
「さ、昼休みよ昼休み。やっと弁当食べれるわ。」
「よし、俺も食堂に行くかな。」
薺と晃が同時に立ち上がる。
いつも休み時間に一緒に話し合ったりしている3人だが、実は昼食はそれぞれ別々の場所で食べる。
ちなみに僕は―――
「壱畝はどうすんだ? 今日も図書館で食うのか?」
そう、僕は図書館で食べていた。
「あー、あったりまえじゃない。庸介は大神田先生にゾッコンなんだからぁ〜」
「ま、それもそうか。」
晃と薺が二人してなにやら冗談じゃない会話をしている。
「なんでそうなるんだよ。」
確かに、大神田先生が居るというのも理由の1つだ。
大神田先生は僕達が入学すると同時にこの学校にやってきた先生で、少し変わった先生である。
例えば、学園図書館の管理人になってまず行った事が、
図書館での飲食・(教師に限り)喫煙を可能にした事だった。
おかげで大神田先生はその一日の殆どの時間を図書館の中で過ごしているのだ。
言ってしまえば、図書館を自分の部屋のように使ってくつろいでいるわけだ。
先生というよりもどちらかといえば生徒に近いような言動を取る、それが大神田先生だ。
そのせいか、自然と話していても退屈しない。
「まぁまぁ、そんな力一杯に否定すんなって。おっとさっさと行かねぇと混んじまう。じゃぁな!」
晃は走って教室を出て行った。
実際、この学園の食堂は結構混雑している。食堂の広さが問題じゃない。生徒の人数に問題があるのだ。
実際に他校と比べればあきらかに大きな面積を誇る食堂なのだが、
いつも昼休み開始10分ほどで絶対と言っていいほど満席になるのだ。
「・・・あ」
そして晃と入れ違いになるように教室に入ってきた女生徒が1人。
正確には教室には入ってきていないが。ドアの所で立ってこちらを見ていた。
「薺、あれお前のこと待ってんじゃないのか?」
「え?」
薺がドアの方を見てみる。すると、女生徒が手を振った。確か隣のクラスの・・・なんていったか。
とりあえず、薺と一緒にいつも弁当を食べている子だ。
しかも、この寒い真冬に屋上で食べている。かなり寒いが景色がいいからだそうだが・・・
(僕は絶対やりたくないね。)

やがて晃や薺が居なくなって僕1人になった。
「さて・・・」
僕も自分の席を立つ。そして、例の少女・・・柳原という少女の居た席を見てみる。
(やっぱり居ない、か。)
どうやら教室から出たらしい、教室を見渡しても居なかった。
今、弁当を食べておかないと5,6限目が辛いだろうが、ここは我慢しよう。
僕は柳原さんを探すため教室を出た。

まず彼女が行きそうな所といえば―――
「・・・うん、わからない。」
早速行き詰まってしまった。となると、図書館にでも行って大神田先生に聞くのが早いだろう。
 となると僕は急いで図書館へと向かった。

先生なのだから、生徒の事は知っているかもしれない。そう考えていた僕が、甘かった。
何故なら・・・
「大神田先生はいらっしゃいますか?」
「えっと・・・先ほどバスケ部の方とバスケの試合をするとか言って飛び出して行きましたけど。」
いつも大神田先生が座っている場所に居た図書委員に聞くと、そんな答えが帰ってきた。
つまり、目の前に居る図書委員は大神田先生代理ということだ。
しかし、なんでまたいきなりバスケの試合なんだこんな時に。
「何か用でもありましたか? 伝言なら伝えておきますが。」
「いや、何でもないんだ。また来るよ。」
ついでに図書館を一回りしてみるが、それらしい女生徒の姿は見えなかった。
なので僕はさっさと図書館を出た。

図書館に居ない・・・とすると、薺みたいに屋上で弁当を? いや”普通”の女の子ならそんな事はしない。
薺に聞かれたら殴られそうな考えで廊下をふらふらと歩く。
(あ、食堂。)
そうだ、食堂があった。今は昼休み、食堂に居てもおかしくはない。
早速僕は食堂に行ってみる。

「おぅ! 壱畝じゃねぇか。どうしたんだよ、今日は。」
うどんをすすりながら手を振ってくる晃。
「あ、ああ。今日はちょっと用事があって。」
「ふーん、何だよ、用事って。」
「人探しなんだけど・・・」
体を左右に半回転させながら、360度見渡してみる。
「・・・。」
「・・・。」
居なかった。
「んー、どんな奴だ?」
晃に聞いてもわかるはずがない・・・だろうが、今は彼女に関する情報が皆無だ。
聞いてみるのも悪くはない。
「お前さ、ここで柳原さん見たか?」
「柳原ぁ・・・? あぁ、あの今朝の子か?」
晃がうどんの汁をすすり、空になったどんぶりをトレイの上に乗せる。
「見たぜ、さっき。」
「本当か?」
とても予想外な所で彼女の目撃証言が出てきた。
「いや、さっきパン買ってるとこちょっと見ただけだよ。」
「よく見てたな、お前。」
「まぁ今朝迷惑かけたわけだし。たまたま目についた程度だけどな。」
「わかった、ありがとう。」
「で? なんでお前そんな子探してんだよ。」
ニヤニヤと不気味に笑いながら聞いてくる晃。この質問は聞き流して他の場所を探そう・・・
そう思ったが――
「なっ!?」
晃の右手はきちんと僕の制服の裾を掴んでいた。
「まぁまぁ。」
「・・・。」
「俺も情報を提供したんだ。な? 理由くらい聞かせてくれてもいいじゃないか。」
僕は仕方なく昨日の出来事を話した。

「はぁ、つまりお前はあの柳原って子が昨日の少女だってか?」
「うん。猫、どうなったかもまだ言ってないし、それくらいは伝えた方がいいかなと思って。」
「やめとけやめとけ。朝、話しかけてこなかったんだろ? 見間違いじゃないのか?」
見間違い・・・確かにそれもあると思うが、あの黒い髪が印象に残って頭から離れない。
艶のある、長い髪が。
「まぁ、もう少し探してみるよ。」
「あぁ、ついにお前にも春が来たか。」
とりあえず、晃の頭を拳の骨の部分で殴っておく。
「ってぇ!」

しかし、食堂でパンを買ったということはどこかでそのパンを食べているということだが・・・
肝心の柳原さんの姿はどこにもなかった。
あの後、食堂を出て再度教室にも帰ってみたが、居ない。
「んー、なんか見つかりそうにないなぁ。」
仕方がない。そろそろ弁当を食べないと昼休みも終わってしまう。
昨日の話ならまた放課後にでもできるだろう。
「・・・戻るかな。」
そう思って教室に引き返そうとした時だ。
「・・・ん?」
それは本当に偶然だった。廊下から見える渡り廊下に彼女の姿を発見したのだ。
そういえば、渡り廊下にはベンチや自動販売機があった。
「見つけた!」
僕は早速その渡り廊下の方へ向かった。
ちなみに渡り廊下は3階にあり、学園と体育館を行き来するための通路と言ってもいい。

渡り廊下に行くとベンチと自動販売機はあったものの、居たのは柳原さん彼女1人だった。
夏は風通しも良く、何人もの生徒が居る場所もさすがの冬になればそこは凍えるような寒さで生徒の姿は皆無だった。
実際、僕だって暖房もないこんな場所で昼御飯を食べる気にもなれない。
そんな場所で、柳原さんは微塵も震えずにクリームパンをかじっていた。
目線は―――窓の外。窓の外をずっと見ながら、ひたすらにクリームパンをかじっていた。
「あのー・・・」
「―――」
声をかけても全くこちらに興味を示さず、クリームパンをかじり続ける。
「・・・あのー」
「―――」
かなり近寄って声をかけてみる。が、彼女は窓の外を眺め、一心にクリームパンをかじり続けている。
「・・・」
「―――」
だめだ。全然声が届いて居ないようだ・・・。無視されている可能性の方が大きいのだけれども。
パンをかじる姿にはどこか小動物を連想させるような可愛さもあったが、このままでは埒があかない。
僕は、彼女の視界を遮るように目の前に立った。
「あのー、ちょっといいかな?」
「・・・え?」
やっと、クリームパンをかじるのをやめる。その反応はまるで今気付いたみたいだが、
本当に気付いてなかったのだろうか?
「えっと、昨日の猫の事なんだけど」
「!?」
単刀直入に聞いた。途端、柳原さんの顔が引きつったかのようにも思ったが、それも一瞬。
「助かった?」
彼女はそう聞いてきた。やっぱり昨日の事は覚えていたのだ。
しかし、昨日黙って帰ってしまったのは急用があったからなのだろうか?
喋っていても、そんなに無責任な人という印象は受けない。それどころか、その話方は非常に穏和なものだった。
「あ、うん。なんとか。」
「そう、よかった。」
どうやら柳原さんはあまり感情を表に出さないらしく、表情は変わらないものの、
その声で安心しているのだと感じ取れた。
「・・・。」
「・・・。」
話が途絶える。事実、他に話すことが何もなかった。いや、あるにはあった。
昨日、なぜ黙って帰ってしまったのとか聞くことはあったはずなのに、いざとなると言葉が出てこない。
晃や薺なら軽口の一つも叩けるのだろうが、人付き合いの苦手な僕にとって、
この話を切り出すタイミングを読むのが非常に苦手だった。
「―――」
と、僕が何も話さないと知ったからだろうか、再びクリームパンをかじりはじめる柳原さん。
ほどから結構かじっているのに、その手にあるクリームパンは一向に減る様子もない。
「はぁ。」
何故か溜息が出た。調子が狂いそうだった。
いつもハイテンションな薺や晃と話している僕にとって、初めてのケースの人間だ。
「それで、あの、さ。あの猫僕が飼ってもよかったのかな?」
彼女は首を縦に振る。OK、ということだろうか。
「私、猫飼えないから。」
それが理由らしい。
アレルギー・・・だと昨日猫を抱いていた時点でおかしい。
と、すると、
「あ、お父さんかお母さんが動物嫌いとか?」
「・・・まぁ、そんもの。」
しばらく考えた風にしてから、そう言った。
まぁありがちな事だ。特に気にすることもないだろう。
「君は猫好きなの?」
「うん。」
「あ、ならまた昨日の猫見たかったら日曜日の公園に来るといいよ。」
それがいつもの猫の散歩コースだった。
うちの飼っている七雄は猫のくせに外に出たがらない。
そのため、わざわざ日曜日に公園まで散歩に連れて行っているのだ。まるで犬のように。
「猫は、散歩させるものなの?」
「え・・・まぁうん。させるものなんじゃないかな?」
あまり他の猫の事はわからないが、とりあえずここは肯定しておこう。
その時・・・
「だぁー! 負けたぁーっ!!」
体育館の方から叫びながら走ってくる大人の女性が1人。
「お、大神田先生!?」
見てみると、大神田先生が頭をかかえながらこっちに向かって来ていた。
そう言えば、体育館でバスケットボールをやっているとか言ってたっけ?
しかし・・・何も図書館に居る時のスーツ姿のままバスケをしなくてもいいのに・・・。
「壱畝ー! あいつらは鬼だ! バスケ部のくせに全く手加減しないのよ!? 何故!? ホワイッ!?」
こちらに気付いてそう叫んだ。大神田先生のテンションはいつもこんな感じだったが、
今日は更にその少し上を行くハイテンションのように思えた。この人を見ていつも思う事だが、
これだけ人生を楽しんでいる人も少ないだろう。
「はぁ。」
「はぁ。じゃないわよ! 今度はアンタも来なさい! あと飛揚や瀬川も誘っときなさい!」
もう次の試合に向けて準備しているらしい。
確かに晃や薺は学年の中でも運動神経はいい方だ。連れてきて損はないかもしれないが・・・
「む、無理ですよ。僕は薺や晃と違って運動得意じゃないし」
「ほほぉーそれでこんな所で女とちちくりあってるというわけですか〜壱畝君も隅におけんなぁー。
この青春エンジョイボーイめ。」
僕は隣の一心不乱にクリームパンをかじる柳原さんと大神田先生を交互に見やる。
つまり今僕がこうしてここに居る事が、この人から見ればそう見えるわけだ。
「いや、これはわけがあって。」
本当の事なのだが、この台詞を言ってしまうと余計に怪しくなったかと我ながらに思ってしまう。
「いいからいいから。何も言わなくてもお姉さんわかってるから。」
大神田先生はそう言って満面の笑みを浮かべている。絶対何か企んでるよ、この人・・・。
「それより、めずらしい奴と話していわね。今日は薺と晃は一緒じゃないの?」
「あ、はい。ちょっと用事があったものですから。」
「ふーん・・・」
大神田先生は胸のポケットから煙草を取り出すとそれに火をつけた。
「ここで煙草吸っていいんですか?」
「あー、なんか教頭が煙草嫌いらしくってさぁ職員室で吸ったら睨まれるのよ。だからここで吸ってんの。」
とんでもない先生だ。渡り廊下の真ん中で教師が、生徒の前で煙草吸ってるよ・・・。
他の先生にチクるととんでもない仕返しをされそうだ。(最もそんな事をする勇気はないが。)
しかし、大神田先生のこういった所が生徒に好かれる要因の一つであることは間違いない。
学年、性別問わず、学生からの支持は高い。
「アンタも珍しいわね。初めて見たわ、人と話してるトコ。ねぇ、沙耶香さん?」
大神田先生が意味有り気な笑みを浮かべながら柳原さんにそう言った。
そこで何か違和感を覚える。
「・・・沙耶香?」
「何、アンタこの子の名前も知らないで喋ってたの?」
煙草の煙を吐きながら、首を傾げて問うてくる大神田先生。
そういえば初めて知った。と、いうことは、大神田先生は柳原さんのことを知っていたようだ。
柳原さんは柳原さんで、何やらじっと大神田先生の顔を見ている。
表情は変えていないが気のせいか、どことなく睨んでいるといった感じがした。
あくまで気のせいであるが。
「・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
妙な沈黙が訪れる。何なんだ、この微妙な空気は・・・。
と、その時、困っている僕を助けるようにチャイムが鳴る。予鈴が鳴ったのだ。
「おっと、それじゃ私は書庫の整理があるんでこれで失礼するよ。」
「あ、はぁ。」
「アンタらもさっさと教室に戻りなよ。」
大神田先生は僕達に背中を向けて右手を軽く振ると、そのまま行ってしまった。
「は、ははは・・・大神田先生ってちょっと変わってるよね。」
「・・・私は嫌い。」
と、早速思いもよらない返答が来た。
隣にあったゴミ箱にクリームパンの袋を捨てると、そのまま歩いていってしまった。
最後に1人空しく残された僕は苦笑するしかなかった。

それから僕は眠気と空腹に耐えながら5限目の生物と6限目の国語を受けた。
「あぁ・・・」
6限目が終わり、HRも終わった後僕はおもいっきり背伸びをする。
「よ、お疲れさん。」
「あ、お疲れさん。」
目の前には早速、かばんを持って席を立った晃が僕の前に立っていた。
休み時間と帰る時だけ、何故か妙に手際がいい。
こういうのをなんだっけ・・・5時まで男とか言うんだっけ?
この手際の良さが勉強で使えたら晃もなかなかの上位を目指せたかもしれない。
「おぅ、それよかどうだ? 久しぶりにゲーセンでも行くか?」
そういえば昨日も猫を病院に連れて行ったくらいで最近は街に遊びに行くことが少なかった。
僕も遊びには行きたかったのだがしかし―――
「ごめん、今日までに本返さなきゃいけないんだ。」
「なんだ、また図書館かよ〜」
「本当ごめんな。テスト終わったらまた打ち上げでも行こうぜ。」
「ったく、仕方ねぇなぁ・・・。そのうち大神田先生と付き合いだしたりしないだろうな?」
全くもってこいつは物騒な事を言う。そんな事をすれば命がいくつあっても足りないというものだ。
いや、命よりも精神の方が保たないだろう・・・。
そこでふと疑問を抱く。そういえば大神田先生に彼氏は居るのだろうか? そもそも結婚しているのか?
 一応見た目“だけ”は良い先生であるが、そういった噂は微塵も聞いたことがなかった・・・。
「なぁ、そういえば大神田先生って独身なのかな?」
少し気になったので口に出してみる。まぁ、晃が知るはずもないのだが・・・
「あーぁ? あの先生だぜ? 大神田先生だぜ!? あの先生と張り合える男、居たとしたらきっとすごいぞ。」
「すごいって・・・?」
「ま、普通の男だったらまず精神崩壊が始まってだな・・・」
「うんうん。」
普通に納得できるところが恐ろしい。
「ま、とりあえず宇宙より広い心の持ち主でないと駄目だな、絶対。釈迦とか!」
「・・・うははは。」
とりあえず笑っておこう。何故笑うかだって? 笑うしかないさ、この状況では。
僕は見てしまった。晃の後ろに居る黒い影を纏った悪魔を。
その悪魔は、僕と目が合うと笑った。とても不気味に。
「ん? どうした、壱畝?」
「い、生きて帰れよ、晃・・・」
それしか言えなかった。
やがて僕の様子がおかしいのに気付いたのか、晃はゆっくりと後ろを振り返る。

「ギィャアアアアァァァァァァァ―――――

その日の放課後、晃の断末魔が学校に木霊した。

放課後の図書館は人がとても少ない。僕達遊び盛りの年代から言えば当然のようだが、
それでも僕は図書館も好きだった。図書館独特の紙の匂いが何故かとても落ち着く。
しかも、授業中とはまた違った静けさがその場を包み、ただ椅子に座ってぼーっとしているだけでも心が安らぐ。
よく昼休みなんかは図書館で寝たりしている。
「全く、あんた達は放っておくと何話しているかわからないからね。」
いつも座っている黒い革張りの椅子に座って煙草を吸っている大神田先生が言った。
どうやら、たまたま僕達のクラスの担任に用事があった大神田先生が立ち寄って偶然にも話を聞いていたらしい。
「ははは、聞かなかった事にしてください」
僕は苦笑しながら、返却する予定の本をカウンターの上に置く。
本の題名は―――

『悪役レスラーは笑う―"卑劣なジャップ"グレー○東郷 』

あるプロレスラーの生涯を紹介した本だった。
苦笑しながらその本を手に取る大神田先生。
「アンタって時々わけのわかんない本借りるよね。おもしろかったの?」
「あ、えぇ。ちょっと珍しい題名だったんでついつい手が伸びちゃって。」
あまりプロレスの事も知らないし興味の無かった僕なので、正直半分は何が書いてあるかわからなかったけど、
何も知らない事を知るのはとても面白い事なのだ。
だから僕はわざと関心がなかたり興味がなかったりするタイトルの本を借りることがある。
「はい、確かに。これ図書カード。」
そう言われて、本と引き換えに自分の図書カードを受け取る。
これで返却も澄んだ事だし、やっと家に帰れそうだ。
図書館に残るといって晃の誘いを断ったのだが、実はそんな余裕はなかった。
そう、明日から期末テストなのだ・・・。
「というわけで、今日はこれで失礼します。」
「ん、あぁちょっと聞きたいんだけどさぁ」
そう言われて大神田先生に引き止められる。
「はい? なんでしょう?」
「んー、いや。今日昼休みに話してた柳原のことだけど、何かあったの?」
突然思ってもない事を聞かれる。しかも、その顔に先程までの冗談の色は一切ない。
僕が「何故ですか?」と聞く前に、付け足すように大神田先生が言った。
「いや、壱畝が他の人と話をするなんて珍しいと思ったからさ。」
「あぁ、昨日ですね、怪我した猫抱いて困ってたんで助けてあげたんです。」
「猫? そうか・・・猫か。」
それだけ聞くと、納得したのか煙草の火を灰皿で揉み消して窓の外を眺めた。
「あの、それが何か?」
「んー、いや。気のせいだとは思うんだけどね。ああいう女には近づかない方がいい。」
再び僕の顔を見てそう言った大神田先生の顔には薄らと笑みが浮かんでいた。
その笑みには、少し悲しみも含まれていたように僕は感じた。しかしちょっと耳を疑った。
先程のような言葉、教師が言っていいものなのだろうか?
というよりも、大神田先生がそういう類の台詞を言う人のようには思えなかったので驚いたのだ。
「え・・・ちょと、どういう意味ですか?」
「んー、ま、女の勘ってやつかな。忘れて。」
今度は何時も通りの屈託の無い、笑顔。そして再び窓の外を眺める。
またいつものようにふざけているんだろう。そう思った僕は別に気にもせずその場を去った。
「それじゃ、さようなら。」
「ああ。気をつけて。」
そう言って手を振る大神田先生は、いつのまにかまた新しい煙草を口にくわえていた。

帰り道。僕はあることを考えながら歩いていた。それは、例の仔猫の名前についてだった。
ちなみに先に言っておくと僕のネーミングセンスは”超”がつくほど悪い。
前から飼っているトラ猫の七雄にしたって、僕が考えた名前ではない。
名付け親はなんと薺と晃だった。
当初、七雄の名前は京四郎と付ける予定だったのだが、晃にもの凄い勢いで咎められたのを覚えている。
というわけで、僕一人であの仔猫の名前を決めるのはとても難しそうだ。
「あーぁ、何かいい名前ないかなぁ。」
そう呟いて、いつかと同じように空を見上げる。
今日の空は昨日の放課後の鉛色とは違い、朱色だった。
その時だ。ある名前が僕の頭の中で閃いた。
「・・・シロ」
思いついた名前を自分自身で確認するために口に出して言ってみる。
別に複雑な理由なんてなかった。考えれば考えるほどセンスが無いと言われるのならば、
何も考えず、単純にすればいいのだ。
白い猫だからシロ。かなりありきたり・・・というよりも安直すぎるが、
よくある名前だけにセンスが悪いということはないはずだ。
(うん、決定。これで決定だ。)
1人納得しながら、僕は帰路につくのであった。

家に帰ると、珍しく母が居間でテレビを見ていた。
いつもどこかに行っているか何かしているのだが。
「ただいま。」
「あ、庸介? あんた、早く部屋に戻った方がいいわよ。」
と、母親が湯のみに入った茶を啜りながら僕にそう言ってきた。
突然そんな事を言われても意味がわからない。
「なんで?」
「ここでテレビ見てると、上から凄い音聞こえてきたし。」
居間の上・・・ということは僕の部屋である。
部屋には猫が2匹居るわけで、大きい音がしたということはつまり・・・
「まさかっ!」
悪夢のような光景が脳裏に過ぎった僕は、そのまま階段を駆け上がった。
思いっきりドアを開けると―――
「にゃ、にゃぁぁああ・・・」
ベッドの上には、何故かボロボロになった七雄がうつ伏せで伸びきっていた。
シーツは何かに引き裂かれ、壁に掛けてあった時計が下に落ちて大破、部品が散乱している。
机の上には、倒された鉛筆立てと七雄と同じくボロボロになった教科書達。
そして机の下から―――
「にゃぁぅー」
包帯を巻いた仔猫、シロが元気良く飛び出してきた。
まさかこれを全部シロがやったというのだろうか? あの怪我で? 
とりあえず今言えることは・・・
「明日テストなんだぞぉぉぉっ! うがぁー」
僕は吼えていた。

その翌日から予定通りにテストは始まった。
1日目のテスト、2時間目の時点で僕の心はボロ雑巾の如くズタボロだった。
前夜の死ぬような苦労も所詮はヤマ張り。殆どの回答が、自分で何を書いているかもわからない回答ばかりだ。
そうやって苦労して四苦八苦する僕だが、時間は何も待ってくれない。残酷に、ただ過ぎていくだけ。
過ぎて過ぎて過ぎて――
やがて1日目、2日目と終わっていく。
ちなみに、僕が思うに英語と数学というのはこの2年の期末あたりが最も困難なレベルに達する。
まぁ3年の授業を受けたことなんて無いのでなんとも言えないのだが・・・。
あの日の晃との一件でノートを失った僕は、まるでガソリンの無い車だった。
やがて、最終日の4日目を迎え、期末テストは幕を閉じた。

「も、燃え尽きたー・・・」
悪魔のような惨劇から3日が経とうとしていた頃、僕は放課後の図書館で机に突っ伏していた。
ちょうど正面の椅子には、コンビニで買ったと思われる焼そばパンを
頬張って幸せそうな顔をしている不謹慎な教師が約一名居た。
・・・なんでこの人はこんなにも幸せそうなのだろうかと考える。
きっと人の不幸を食って生きている魔女なのだろう・・・。
などと口にすれば存在を消されそうな事を頭の中で考えながら本人の顔を見る。
「いやぁ、お昼食べられなかったのよ。野球部と野球やっててさ。食べる時間無かったというか。」
それで放課後に焼そばパンを食べているのか。こんなにも笑顔満点で。
僕は心から“それ”を羨ましいと感じた焼きそばパンではなく、それを食べることによって得る幸を、だ。
あぁ、僕にもその幸せを少し分けて欲しい。焼そばパンが欲しいとかじゃなくて。幸せが、欲しい。
「えーっと、国語25点 英語60点 生物52点 歴史42点 保体が35点に、数学が・・・18点。」
「うーぅ、言わんでください。」
「あはははっ、まぁ、なんだ。これも人生よ。諦めろ!」
大神田先生はそう言って右手の親指をぐっと立てると、焼そばパンの最後の一口を頬張った。
「大体、晃が川に突き落とすからこんなことになったんですよっ」
「あれ? アンタが勝手に足滑らして落っこちたって瀬川言ってたわよ?」
「なんと!」
僕は怒りのあまり、自分でもわけのわからないツッコミ(?)を入れた。
「まぁ、あの瀬川のやりそうなことだわねぇ」
大神田先生がパンのくずを丸めながら笑った。
「あ、そろそろ時間だ。それじゃ今日は帰ります。」
「ん? そうか。」
薺は陸上部に入部して帰りが遅いため、僕が放課後に図書館へ行って遅くなる時は一緒に帰ったりしている。
大体決まった時間に校門へ行けば、そこに薺が居る。
だが、今日に限って陸上部はまだ終わっていなかったようだ。校門で、1人立ち尽くす男がここに一名。
(ふぅ、せっかくだしもう少し待つか。)
せっかくこんな時間まで残ったのだ。別に少しくらい待っても問題はないだろう。
そういえば・・・シロは大人しくしているだろうか?
あのテストの前日以来、部屋が荒らされるという現象はなくなったが、1つ変わらないものがあった。
それは七雄がボロボロだということ。
日を追うごとに、七雄はボロボロになっていく。見ていて気の毒なくらいに。
最近は夕飯の時間になってもベッドの下から出てこないことが多い。
(僕が居ないあいだ、仲良くやってるのかなぁ?)
しかし、引き篭もりで喧嘩も弱いというのは・・・七雄って結構駄目猫だったりするんじゃないのだろうか?
と、そんな事を1人で考えているうちに誰か来たようだ。足音と人の気配で僕は後ろを振り返る。
「あ、」
思わぬ人物に出くわして思わず声を上げた。その人物とは柳原さんだった。
柳原さんは何も言わずにこちらに頭を下げる。
「あ、どうも。」
そのあまりにも他人行儀な挨拶に釣られて僕まで頭を下げてしまう。
殆ど話さないし、初対面同然であったが同じ学生の間でこのような挨拶を交わす生徒も少ないだろうな、
と僕は心の中で苦笑する。
「帰らないの?」
柳原さんがそう聞いてきた。言葉は疑問形だが、表情は全く変わらない。
そこにはまるで感情がない印象を受ける。実際は興味がないだけであるとは思うが・・・。
「あ、うん。薺待ってるから。」
「薺・・・?」
「あ、僕の友達。陸上部で部活してるから。」
「そう。それじゃ。」
「あ、うん・・・気をつけて。」
彼女はもう一度頭を下げると、この先にある竹林の入り口の方へと歩いていく。
僕の隣を通りすぎる時、少し風が吹いて彼女の長い髪がなびく。
と、共にシャンプーの匂いだろうか、とてもいい匂いがしたことに気付く。
やがて彼女の姿が遠ざかり始めた時、僕は思い出したように言った。
「あ、あの! この前の猫、シロって名前になったよ!」
「・・・そう。」
その言葉を聞いて、立ち止まった彼女は短くそう言ってまた再び歩き出した。
「・・・。」
再び校門の前で僕は1人立ち尽くす。何故か、とても虚しく感じた。何故だろう・・・。
それは恐らく、僕の望んだ返答を返して貰えなかったからだろうか?と思考してみるが、
結局答えには辿り着くことはなかった。
「なーに1人で黄昏てんの、馬鹿庸介。」
「いぃっ!!?」
突然後ろから声がかけられる。後ろを振り返ると、通学用の鞄と部活のものであろうスポーツバッグを両手に提げた
薺が立っていた。
「な、なんだ、居たのか薺。声かけてくれればいいのに。」
「んー、何か話してたみたいだったし。」
「まぁ、確かにそうだけど・・・。とりあえず行こうか。」
「うん。」
よくよく考えてみると、こうして薺と帰るのは実に久しぶりだった。
高校に入ってからは月に1回一緒に帰ればいい方だ。
「へぇ、珍しいわね。庸介がこんな点数取るなんて。」
歩きながら僕の成績表を見てとぼけるように言う薺。晃のせいだということを知っているくせに。
しかも何故かその顔はとても嬉しそうだった。
「はぁ、もう今回は散々だったよ。」
「おばさん怒るんじゃないの?」
薺に言われて、再度自分の置かれた立場を噛み締める。
あぁそうだ。この成績で母さんが黙っているはずないじゃないか・・・。
下手をすれば月の小遣いが猫の餌代のみになってしまう可能性だってなくはない。
「うへぇ・・・」
それを思えば変な声が出てしまうのも無理なかった。
その点薺は安心だ。いつも平均的な成績を取っている薺が今回は稀に見る好成績を出した。
もうコイツは次の春休みを笑顔で謳歌することができるであろう。先程から嬉しそうな表情なのも頷ける。
「まぁまぁ。当然の結果よね〜。」
「はぁ。」
もう溜息をつくしかなかった。
「それより庸介、知ってる?」
「え? 知ってるって何が?」
「さっきアンタが喋ってた柳原さんの事なんだけどさ。」
「・・・?」
「全国模試でベスト10入りしてるらしいわよ。」
「はぁ!?」
驚いた。学校のテストがどうこうというレベルじゃない。
ちなみに僕の知り合いでベスト10に入った人は未だかつて居ない。その番号は実際に存在するのだろうが、
その番号を所持する人なんて雲の上の人・・・生きた伝説的な何かだと思っていたのだが、
こんなに身近に居るものだとは・・・。
柳原さんはとても物静かで、成績が悪いというイメージはないがそれと同じで秀才というほどのイメージも
なかったのだが、どうやらその考えは外れたらしい。本当は筋金入りのガリ勉なのだろうか? 
だとしたら、あの無感情の表情も頷ける。
「いやね、たまたま掲示板に上位獲得者の名前が載ってて、
知ってる名前があったんだけどどうにも思い出せなくてねぇ。」
「え?」
「それで、さっきアンタと柳原さんが話してるの見て思い出したのよ。」
僕は一瞬薺の言っている事が理解できなかった。
知っている名前があったんだけどどうにも思い出せない―――確かにそう言ったはずだ。
「お前、忘れてたのか? 自分のクラスメイト。」
数日前までその存在すら知らなかった僕が言うのもなんだが、そう聞いて見る。
「あはは、いやぁこう言っちゃ悪いけど彼女地味だからさぁ・・・」
「・・・。」
「あれ? 何で黙ってんの? おーい?」
おかしい。絶対におかしい。だって僕が柳原さんを始めて見た時、薺が言ったんじゃないか。

『へ? あぁあの子? 名前なんてったっけなぁ・・・確か、柳原さんだっけ?』

あの初めて出会った日の病院でもそうだった。必ず、みんな彼女の存在を忘れる。
いや、忘れるというよりも、それは知らない状態になったとしか言い様がないくらいにまで、
記憶から彼女の存在が欠落するとでも言えばいいのだろうか。
「なぁ、薺・・・」
「ん? 何?」
試しに聞いてみた。
「彼女の、柳原さんの下の名前なんて言うんだ?」
「・・・」
薺はしばらく考えた後、こう言った。
「うー・・・掲示板で名前見たんだけどなぁ・・・な、何だっけ?」
「・・・そうか。」
やはり、覚えていなかった。
確か大神田先生が言うには、沙耶香・・・とか言ってたっけ?
「何、庸介。あんた彼女の事気になってるの?」
「え? 気になってるって・・・」
僕達の年頃の青春真っ盛りな少年少女が考えることだ。
そしてそれは僕も例外ではないわけで、そんなものどういう意味かすぐに理解できた。
「そ、そんなんじゃないって。あの子とはたまたま偶然出会っただけなんだから! 
話したのも今日が二回目だし。」
「あ、そう? ま、そういうことにしといてあげるわ!」
薺はそう言うと、小走りで脇道へと入っていった。彼女の家はその脇道を抜けた所にあるのだ。
「それじゃ、気をつけて帰りなさいよ!」
「あぁ、お前こそ、近くだからって気ぃ抜くなよ!」
そう言い合って僕達は別々の帰路についた。

「そう、か。庸介がねぇ・・・。」

◆

「ただいまぁ」
やっと家に帰った時、時刻は4時30分になっていた。
これから暗くなる時間だ。
部屋に戻ると案の定、伸びきった七雄とそんな事はお構いなしに机の上で丸くなって寝ているシロ。
こんなぐうたらな猫達を見ているとついつい外へ連れ出したくなってしまう。・
「うっし、散歩行こう!」
思いついたら即行動。少し大きめのコートを着ると、2匹の猫を持ち上げる。
「にゃっ!?」
「にゃぁー」
手足をばたつかせながら必死に足掻こうとする姿が何故かかわいい。
そんな2匹の猫をそれぞれ左右のポケットに入れると僕は公園へと向かった。

「さ、お前らちょっとは走れ。」
そう言って、ポケットの中から取り出した2匹の猫を砂場の上に乗せる。
「にゃ、にゃ・・・」
「う、にゃ・・・」
冬の冷たい空気に当たってフルフルと振るえ続ける猫が2匹。その場から全く動こうともしない。
この様子じゃ少し離れているベンチに座っていても大丈夫そうだ。
そう思い、僕は砂場から少し離れたベンチに腰を下ろした。
5分間ほど震えていた猫達だったが、時間が経つにつれて砂場の辺りをウロウロしはじめる。
(お、動き出したな・・・。)
その行動は何かを探しているようにも見えた。
同じ場所を何回かくるくると回って・・・
(あ、目が合った)
その時だ。物凄いスピードで七雄とシロが駆け寄ってくる。
「うわぉっ! な、なんだお前らっ!?」

ガリガリ、ガリガリ――

2匹の猫は、僕の足元まで来ると、コートの端っこを前足で引っ掻き始める。
ポケットの中に戻してといわんばかりの必死な様子がこちらにも伝わってくる。
(お前ら、そんなに外が嫌なのかよ・・・)
苦笑しながら七雄とシロを抱き上げてポケットの中に入れる。
2匹ともポケットの底の方で丸くなってしまった。
「お、その白猫が例の猫か?」
突然、聞きなれた声が後ろからかけられた。晃だ。
「よ。偶然近く通りかかったらお前みかけたもんだから。で、その猫が?」
シロを指さしながら、僕の隣に座る晃。
「え、あぁ。うん。僕が飼うことになった猫。シロって名前。」
「お前も好きだよなぁ、動物。」
呆れたように言う晃。まぁ晃には動物を飼う人間の心は理解できないだろう。
とりあえず晃が動物を飼えば3日で放置するだろうなと僕は思ったが、
流石にそこまで酷くはないかと思いなおす。だが動物を飼うということは実際結構大変だ。
毎日、3食の食事を用意して(昼は親にまかせているが)、
たまにはこうして散歩にもつれていかなければいけない。
ちなみに猫は簡易トイレを部屋に設置できるが、犬の場合は毎日散歩に連れて行かなければならないので、
散歩に関しては犬が一番大変そうだ。
飽きっぽい晃の性格を考えると、利益でもない限り動物は飼わないだろう。
とりあえず、僕は七雄の首を掴んで晃の目の前へ持っていく。
「にゃ。」
「よ、よぅ。」
何故か挨拶をする1人と1匹。
「な、かわいいだろ? 猫。」
「いや、俺は別に・・・。」
半目で、目を逸らす晃。
「えー、なんでだよ。」
「いやぁ、嫌いってわけでもないんだが・・・そう、動物全般が苦手なんだよなぁー」
そう言いながらポケットから缶コーヒーを取り出す。
「飲むか?」
「あ、あぁ。」
とりあえずくれるのなら貰っておこう。晃からおごってもらうなんてのは中々あることではないし。
僕は、コーヒー缶を晃から受け取る。
「ぅあちっ! あちちっ!!」
熱かった。なんで前もってホットコーヒーの缶が都合良く入っているのだろうか。
「今買ってきたのか?」
「あぁ。あそこの自販機で。」
晃が指差した方向には、自動販売機が2台並んでいた。あぁ、なるほど。
「ちなみに俺の分も、ある。」
もう片方のポケットから同じコーヒーを取り出す。
「ふぅ、で、テストはどうだった?」
最悪の結果へと導いた張本人が薄笑いを浮かべながら聞いてきた。
結局、それが聞きたかったのか。
帰る時に結果表を薺に見せた後、くしゃっと丸めてポケットの中に入れたのを覚えている。
「えっと、これか・・・。」
ポケットの中から丸まった結果表を晃へと手渡す。
「うっわ、もうこの時点で悲惨さがひしひしと伝わってくるよ。」
「お前が言うな!」
とりあえず後頭部に拳を一発入れておく。
「うぅーむ、国語25点 英語60点 生物52点 歴史42点 保体35点 数学18点!」
そして、その次の言葉に僕は耳を疑った。
「悪りぃ、俺、お前に勝っちまった・・・」
「はぁっ!!?」
「な、なんかさぁ、今回歴史と国語の点数が80点代もあったんだよ」
「・・・。」
「・・・。」
しばらく無言で見つめう2人。知らない奴が見れば、気持ち悪いの一言で片付けられるような雰囲気だ。
「あはは。」
やがて沈黙を破ったのは、この重い雰囲気に耐え切れなくなった晃の乾いた笑い声だった。
「・・・笑えねぇーよっ!」
「うーん、でさ。お前、もう進路とか決まったか?」
「え?」
これまた思いもよらない言葉が晃から出てきたものだ。
しかし侮ってはいけない。晃だって晃なりに将来の進路を考えているのだ。
以前にも何度かこうして話し合ったこともあった。
「進路って・・・んー、まだわからないよ。」
「そうなのか? ちょっと意外だな。お前が進路決めていないなんて。」
実際、考えているのは進学だが、どこの学校にしようとかどんな学科に入りたいとか、
具体的な事はまだ何も考えていないのだ。ちなみに晃は就職だそうだ。
「お前こそ、どこに就職したいのか、決めたのか?」
「あ、ああ。俺は・・・富田に行くことにした。」
「富田・・・? 富田って、あの富田!?」
一瞬耳を疑った。
富田薬品工場。僕達の街にかなり大きな工場がある。大手企業だ。
社名からもわかるように、薬品を製造している工場だ。
しかし・・・悪いが今の晃の成績では到底無理のはずだ。
「また冗談か?」
「違うよ。あの会社に身内が居るからさ。当然、俺もそこそこの成績は取らなきゃいけないけど、
そんなに厳しくないはずなんだ。」
となると、身内というのは幹部クラスなのだろう。
「へぇ、晃はこの街に残るのか? なんでまた・・・お前ならてっきり東京にでも行くと―――」
「俺か? 俺はこの街好きだからな。仕事の事考えてもそれが一番いいはずなんだよ」
いつになく真剣に言う晃。その表情にいつもの晃の面影はない。そこで初めて思い知った。
いかに自分が何も考えていないかを。正直に言えば油断していた。
晃だから、将来の事もまだそんなに深くは考えていないと。でも、実際は違った。
「そうなのか。」
「あぁ。」
とりあえず、今の僕が考えているのは・・・
「僕は、この街を離れることかな。」
「それって、下宿するってことか?」
「うん。僕さ、前々からどこか知らない場所で生活してみたいなぁとは思ってたんだけど。」
「・・・そう、か。」
「ところで、晃は何かやりたい事とか何かあるのか?」
僕は晃にそう聞いていた。これは実は、僕が僕自信に一番問いたい言葉なのかもしれない。
まだ、将来の事を何も決めていない僕に。
「・・・。」
僕の問い掛けに、黙り込む晃。自分のコーヒー缶をじっと見つめている。
「あ、話したくないならいいんだよ。別に。」
「なぁ・・・もし、さ。まぁ、やりたいことっていうかさ、」
「ん?」
「俺が薺の事、好きって言ったらどうする?」
その言葉に耳を疑った。一瞬、自分の聞き間違えかとも思ったが晃ははっきりと言って
僕はそれをはっきりと聞いていた。
冗談―――でもなさそうだった。表情を見ればわかる。晃は、本気だ。
だが、本気とわかった所で僕にはどうしてやることもできない。
ましてやどうすると聞かれてしまっては・・・
「どうするって、言われてもなぁ・・・」
そう言うしかなかった。
「いや俺が薺と付き合うことになったらお前・・・!」
「ん? 俺がどうかしたか?」
「お前、薺の事好きじゃないのかよっ!」
「・・・」
とりあえず、グーにした拳を晃の後頭部に押し付ける。
「い、痛い! ノォォーーー!!」
「あのなぁ、そう思う理由を30字以内で述べてみろ? んん?」
「いや、お前ら幼馴染でいっつも一緒に帰ってたじゃないか! 学校でも仲良さそうだしさ!
 だいたい決まってんだよっ!そういうゲームで幼馴染の少年少女がやることと言ったら―――」
あまりにも危険な事を言いそうだったのでとりあえず黙らせよう。
「だから痛い、痛いぃぃ! さすがに缶は痛いって!」
だが、晃の言葉にはただ驚くしかなかった。親友であり、僕や薺の事をよく知っている晃でさえそう思ったわけだ。
恐らくクラスメイトの殆どから晃と同じ目で見られていたのではないのだろうか? 
まぁ、逆に近すぎた所から僕達を見ていたから晃のみがそう見えただけかもしれないのだが。
「あのなぁ、晃。これだけは言っとくけど、僕と薺に限ってそれ絶対ないから。」
「ほ、本当だろうな?」
「あぁ。実際、僕は薺を女性として見てないから。」
こういう言い方は薺に対して失礼だとは思うが、晃の誤解を解くためだ。
申し訳なく思いながらも僕は言った。
「じゃどういう目で見てるんだよ。」
「んー、友達? まぁとりあえず、僕の中での薺はお前と同じ扱いだから安心しろ。」
とりあえず薺が聞いたら広辞苑の角で殴られそうな事を言って晃を納得させる。
でも本当のことなのだ。あの薺だからそんな事はありえない。
晃が言うように、結構一緒に行動したりもしているがそれは子供の頃からずっとである。
むしろ最近は一緒に居ることが少なくなってきたほうだ。
子供の頃から一緒に遊んできた薺は・・・そう、兄妹や親友という存在だ。
「・・・そうか。ならいいんだ、うん。」
「ってかお前、本当いきなりだよなぁ。薺の事好きだったのか?」
「あ、あぁ。まぁ。」
あいまいな返事。柄にもなく照れていた。外見とは違い、けっこうシャイなのだ。
「いつからそんな風に見てたんだ?」
「・・・俺もわかんねぇよ、そんなもん。でも、好きなんだ。それだけははっきりしてる。」
「はぁ? なんだ、それ。」
「どうせわかんねぇよ。猫の相手ばっかしてるお前には。」
そう言ってベンチから立ち上がる晃。辺りはすっかり薄暗くなってきていた。
「お前も気付く時があるんじゃねぇ? 先に言っといてやるよ。いつからなんて関係ないな。
気付いた時には好きなんだからさ。」
「・・・。」
「じゃ、俺ぁ帰るわ。お前も早く帰れよ。」
「あ、ああ。」
そして歩き出そうとする前に再度こちらを振り返る。その顔は、赤かった。
「そうそう、この話誰にも言うなよ? 特に本人には! な!!」
「あー、明日の昼食は学食でラーメンが食べたいなぁ、な、七雄?」
「にゃー。」
七雄がポケットから顔を出して一回大きく鳴く。
「むぅ、こいつは秋刀魚が食いたいらしいよ?」
「お、お前なぁ・・・」
早くも僕に告白した事を後悔するように顔をしかめる晃。
「ったく、冗談だよ。ほら、さっさと帰れよ。もう暗くなるよ?」
「・・・だな。それじゃお前も気をつけてな。」
そう言って晃は帰っていった。一方の僕は―――
公園から晃の姿が見えなくなるまで僕はベンチから立てないでいた。
晃のあんなに真剣な顔を見たのは初めてだからである。
あいつが言っている一言一言がとても重くて、身に染みた。
何故だか、少し自分が負けているような気がして、悔しかった。
実際、僕は晃に負けているのだろう。
たとえその人より勉強が、成績が優れているから、その人より優れている人間とは限らない。
僕は確かに晃に劣等感を感じていた。

帰り道。僕は晃の言葉を頭の中で繰り返しながら帰路についていた。

『好きなんだ。それだけははっきりしている。』

なんだよ、それ。と思いつつ、何故だか納得できてしまう。
好物の食べ物があって、何故好きなのかと理由を聞かれても美味しいからとしか答えられない。
恋愛そういうものなのだろうと、人を好きになったことのない僕であるが思う。
そう考えれば、晃はとても純粋な心の持ち主だと思う。
「うわぶっ!」
突然何かにぶつかった。考え事をしながら歩いていたので、前を見ていなかったのだ。
目の前には人が倒れていた。
「す、すみません! 大丈夫ですか!?」
倒れた人物を起こそうと手を差し伸べる。と―――
「あ・・・」
「・・・。」
柳原さんだった。学園の制服を着て鞄を持っている。あの時校門で出会った時のままの格好だ。
ということは家には、帰っていないのかな?
「だ、大丈夫? 怪我、ない?」
「うん。」
彼女は一言肯くと、立ち上がった。
その時、僕のコートのポケットから一匹の猫が顔を出す。シロだった。
「にゃー」
「あ・・・」
その時、はじめて柳原さんの驚いた顔を見たかもしれない。
そうだ、これはいい機会だ。元気になったシロを見せておくのもいいかもしれない。
「今も週に1度は病院行ってるんだけど・・・元気になったよ?」
ポケットの中からシロを抱き上げると、彼女の目の前まで持っていく。
「・・・。」
「・・・。」
シロと柳原さんは黙って顔を見合わせる。
何もしない。ただ、見るだけ。
と、柳原さんが片方の手でシロの頭を撫でる。
シロは黙って撫でられるだけ。こんなに大人しいシロを見るのは初めてだ。
まさかとは思うが、柳原さんに懐いたんじゃないのか?
「元気に、なったのね。」
「うん。あと少しで包帯も取れるみたいだし。」
「そう、よかった。」
「うん、本当、助かったのが奇跡って言ってたからね先生。」
「そうなんだ。」
「ところで・・・」
いい機会だ、と思った僕は思い切って彼女に聞いてみることにした。
「あのさ、君と出会って病院に行った日の事なんだけどさ」
別におかしな事を言っていると笑われてもいい。何故だか、その事だけがすごく気になっていたのだ。
「みんな、君の事忘れるんだ。なんていうかな・・・君の事、見ていたはずなのにまるで始めから見てなかった風に。」
「・・・そう。」
「何か、わからない?」
「何故?」
彼女は別に笑うこともなく、逆に質問を質問で返してきた。しかし僕は、
「わからない。でも、何故だか気になって。」
そうとしか言えなかった。
「ごめんなさい。私にもわからないわ。」
「あ、ならいいんだ。こっちこそ、ごめん。」
と、柳原さんは腕の時計に目をやった。どうやら時間に追われているようだ。
「あ、私はこれで。」
「あ、うん。それじゃ。」
それだけで終わるつもりだった。それだけで。
この時声をかけなければ、二人は別の道を歩いて、別の将来を歩んでいたのだろう。
でも、その時動いたんだ。運命の歯車が。
「あ、あのっ!」
「・・・何?」
「あのさ、休み時間とかまた暇だったら話でもしようよ。晃や薺・・・あ、友達も結構居るから、
みんなで話せば楽しいと思うんだ。」
「・・・」
その時は、ただそれだけだった。いつも1人だった彼女がどこか寂しそうに感じたから。だから誘った。
でも、その時、確実に歯車が動き出した。

「・・・わかった。それじゃ・・・また明日、壱畝君。」

一瞬だけど、彼女の顔が笑ったような気がした。

◆

夕日が完全に落ち、夜の闇の中を私は1人歩いていた。
狭い道、私しか居ない、私だけの空間。音もない、静寂な空間。
それなのに、心は何故か落ち着かなかった。
原因はわかってる。先程出会ったクラスメイト、壱畝 庸介。
彼は私の事を覚えていた。何故かは知らないけど。
彼と話していると、いつも平常心が保てなくなる。
何故かはわからなかった。私はまともに人と話したことなんてなかったから。
生まれてから今まで、ずっと1人だった私に、”友達”などという存在はなく、
日々を機械的に過ごしてきた。私は別にそれでもよかった。
でも・・・ふとしたきっかけであの少年に出会ってから、私の中で何かが狂いはじめていた。

アノショウネントハ、カカワルナ―――
ワタシハズット、ヒトリデ、イキテイクウンメイナノダカラ―――

私の中で何者かが叫ぶ。わかっている。私も馬鹿ではない。
あの少年だけではない。私は”普通”の人とは関わってはいけないのに・・・
何故、あの少年は私にこうもかまうのだろうか。

と、その時だ。
「―――!!」
目の前の闇に人の気配を感じ取り、私は足を止める。
その人が何者か、だいたい正体はわかった。
黒いコートに身を包んだ50代前後の中年男が、私の前に立ちはだかる。
オールバックに硬めた髪とサングラスが、その人から威圧感を放っていた。
「久しぶりだな。」
「・・・何か御用ですか、こんな所に。」
男は、かけたサングラスを取りながら、私の問いには答えずただ薄笑いを浮かべるだけだった。
それでもいい。何故、こんな所にこの人が居るか、大体の想像はできた。
「・・・。」
「・・・。」
沈黙が訪れる。こうしていても仕方がない。
「何もないのなら私はこれで失礼します。」
そう言ってこの場を去ろうとした時、男が口を開いた。
「あの少年は、ボーイフレンドかね?」
あの少年・・・おそらく先程の壱畝君との会話を見られていたのだろう。
「・・・まさか。彼はただのクラスメイトです。それ以上でも以下でもありません。」
「だろうな。」
男はポケットの中から何かを取り出すとそれを口の中に入れた。
チョコレートだった。
「で、どうだ。いい加減、戻ってくる気にはなったかね?」
「まさか。言ったはずです。私は絶対に戻りません。」
「くっくくく・・・」
私の出した答えに、男は耐えるように静かに、喉で笑った。
何故かそれがとても腹の立つことのように思えた。
いつもそうだ。何故かこの男の仕草一つ一つに苛立ちを覚える。
「何がおかし―――」
「ふん、まぁいい。では僕はもう少し見物させてもらうよ。君のようなイレギュラーが
どこまで周囲に溶け込めるか・・・。それもまた実験の一材料となるだろうからね。」
「っ!」
「ハハハハハ! それではまた会う日まで。」
男はそれだけ言い残すと、笑いながら再び闇の中へと消えていった。

◆

夜。僕は眠れずにいた。ベッドの上で、ただ見慣れた天井を見る。
公園で晃が言った一言一言を思い出す。
(でも、勘違いする晃も晃だけど、薺の事好きだったなんてちっとも気付かなかったよなぁ・・・。
そういう意味では、僕もやっぱり鈍感だな。)
毎日が楽しい日々。晃と二人で登校して、二人で馬鹿やって。最後は薺が凄まじい勢いで突っ込む。
そんな光景からは、晃の本心なんて全くわからなかった。
僕は、正直不安だった。
晃がここまで考えているように、薺も色々考えている。
以前聞いた話では地元の大学に進学するらしい。
今思えば薺が地元に残るから晃もこの街を出ようとはしないんじゃないのか? 僕はそう思った。
もし晃が薺と付き合うことになったとしても、高校を卒業すればお互い離れ離れになってしまう。
ただ好きな人が地元に残るから、自分も残るという理由を聞けば、馬鹿にする人も居るかもしれない。
ただそれだけの事で将来の事を決めてしまうなんて、と。
でも、僕は思う。そうやって自分の人生を賭けて真剣に人を好きになれる晃はむしろ凄い奴だと。
地元にただ残るだけではなく富田製薬という立派な就職先も考えている晃は本当はとても凄い奴なのではないのか?
2年も終わりに近づいて、教師との2者面談なるものも増えてきた。
そんな中で、僕はまだ進路を全くといっていいほど決めていなかった。
決めているとすれば、この街からなるべく離れて、遠い所へ行くこと。
でもそれだけ。何がしたいかもわからない。
僕は一体、どうしたいんだろうか? 何が、したいのだろうか――?
先程晃に問いかけた質問を、心の中で自分に問う。
それから何分、何時間経っただろうか。知らず知らずのうちに僕の意識は
深い深い眠りの底に沈んでいった。

翌日。僕はいつもの時間に、いつものように目を覚ます。
カーテンを開ければ、窓一杯に広がる朝の光景。
何も考えず、その窓に映る景色だけを眺めているだけで落ち着く。
昨夜感じていた不安なんて気にすることは何もない。
(そう、気にしなくて、いいんだよな?)
いつまでもウジウジしていることはない。そう自分に言い聞かせると、僕は学校の制服に袖を通した。
そして、部屋を出る前にいつものように七雄とシロのお皿にキャットフードをあける。
「にゃ。」
「にゅぁ」
机の下からシロが、ベッドの下から七雄が姿を見せる。
そして朝からよくこんなに食欲あるなぁというほどにキャットフードにがっつく。
無心になってキャットフードを頬張る2匹の猫。そんな2匹を見てるとついつい思ってしまう。
(猫って毎日平和でいいよなぁ)
「・・・そんなに平和なのは誰のお陰だと思ってんのですかねぇ?」
僕は誰に言うでもなくそう呟いてから七雄の耳を引っ張った。
「うにゃぁ」
ふるふると顔を振る七雄。
でも、本当に。あの日僕が七雄を拾っていなければ、今頃どうなっていたのだろうか・・・。
ある雨の日、あれはまだ僕が高校に入りたての頃のことだ。
道端で雨に濡れる猫をみつけた。ちょっと小柄なトラ猫だった。
トラ猫は、雨の冷たさと寒さに震えながら必死で鳴いていた。
でも、そんな鳴き声で足を止める人間なんて1人も居なかった。
ずっと鳴いている。鳴いて、鳴いて、鳴いて。自分がここに居ると、その存在を示そうと鳴いているのに。
当たり前だ。拾えば飼わなければならない。そんな厄介事は御免だと無視する人も居るだろう。
無視した人が悪いとは言わない。捨てた人間が悪いのだから。
でも、僕は今、ここを白々しく通り過ぎていく人に何故か腹が立った。
親のすねをかじって何の心配もなく生きているような高校生の僕が何を甘い事を
言っているのだと笑われるかもしれない。
でも、かわいそうじゃないか。猫一匹くらい、助けてもいいじゃないか。
そう思った時には、僕の体は自然に動いていた。
「にゃ」
「んー、トラ猫・・・飼えるかなぁ?」

◆

あまり不安になることを考えるのはよそう。朝からそう何度も自分の中で繰り返してきた。
しかし、人間は生きていくうえで悩みを捨てることなんてできない。
逆に言えば生きていると悩みなんて山ほど出来すぎて、押しつぶされそうになるのだ。
そう、誰もがかならず身の内に秘めているものであり、僕もその1人なのである。
「おはよぅ、壱畝ー!」
「よぅ、今日も一発行こうや壱畝!」
学校に近づくにつれて、知り合いのクラスメイトも増えていく。

「おはよぉー」
教室に入ると、既に半分ほどのクラスメイトが来てそれぞれにグループを作って話しをしていた。
「やっほぅ、庸介。」
他のクラスメイトと話をしていた薺がこちらに気付いて手を振ってくる。
「あ、おぅ。」
クラスの半数が登校してきているが、当然その中に晃の姿はない。
たまに早い時間に登校してくるときもあるが、その殆どがチャイムの鳴る間際か遅刻になっている。
自分の席に荷物を置いて一息つくと、改めて教室を見回す。
みんな、それぞれに好きなことをしている。

「なぁ昨日のあれ、見たか?」
「お、あぁあれな。すごかったな」

昨日のテレビ番組で盛り上がる奴。

「今日さぁ、CD買いに行かない?」
「え?CD?」
「ほら、今日発売じゃん」
「あ、そうだっけ?」

新譜のCDについて語る奴も居れば、受験に向けて机の上に参考書を広げている奴もいる。
そんなに頑張らなくてもまだ2年生なのに、と思うがそういう考え方をしているから
未だに進路も決まらないんだろうなと自嘲する。
やがて、1つの机に目が留まる。柳原さんの机。見た限りではどうやらまだ来ていないらしい。
でも、クラスの誰もがそんな事は気にしない。誰も気にせず、それぞれの話や用事に集中している。
恐らく、これは勘なのだが・・・今日一日彼女が学校を休んでも、誰も不思議がらないだろう。
「・・・。」
僕は苦笑した。数日前から自分でも気付くほどに、僕は柳原さんのことを気にしている。
彼女が、いつも1人だから。昨日、公園からの帰り、別れ際にあんなことを言ったのも、
いつも1人で居る柳原さんが寂しそうだったからだ。
彼女が静寂を好んで1人で居るのならば話は別だが・・・どうしても僕にはそんな風には思えなかった。
いつかの七雄と同じ、僕はいつも1人の柳原さんを放っておけないでいた。
「けっ、なーに朝から黄昏てんのよ、ナルシストボォーイ!?」
「う、うぉぁぁぁぁ〜〜」
気付いた時には、薺に背後に回られていた。
グーにした拳を僕の頭でぐりぐりとする。晃が居ない時に僕に突っ込むのは辞めて欲しい。
「って、なんだよ、そのナルシストって」
「まぁまぁ。で、先生、今日もお願いしますー」
薺が両手を僕の方へ差し出してくる。
「薺、最近課題ずっとサボってるね。」
「えー、仕方ないじゃん。部活、大会前でさぁ、きつくてきつくて・・・」
「大会か。」
「よかったら見に来る? 残念ながらブルマはないけど。」
「お前はどっかのエロオヤジか!」
「あははぁー、じゃ、数学のノート借りてくわよぉ〜」

そうして馬鹿なやり取りをしているうちに、予鈴が鳴り始める。
クラスメイトは殆ど揃っているが、2つだけ席が空いているのに気付く。
1人は晃、もう1人は柳原さん。
「おっそいわねぇアイツ。何やってんのかしら?」
薺がイライラしながらそう言った。
普段は晃が遅刻しても気にするような奴じゃないのに。
「珍しいな、どうしたんだ?」
「え? あぁ、英語の課題出てたでしょ? あれ貸してんのよ。まぁ、一時間目数学だからいいけどさ。」
そういえば、そんあこともあったっけ。
晃の場合、この課題をやってこなければ成績が凄いことになると聞いたような気もする。
「ちぃーっすぁ」
予鈴が鳴って数分してから晃が入ってくる。今日はまだ早いほうだ。
「あ、晃。英語のプリント返しなさい。」
「ん、あぁ。助かったぜー。今日提出だったもんなぁ」
そう言いながら、何も入ってなさそうな鞄をかき混ぜながら薺のプリントを探す晃。
「んー、ないなぁ」
もっとよく探そうと鞄の中をかき混ぜる手を早める。
「あ、あれ? れれ?」
やがて嫌な汗が流れ出し、顔も青ざめていく。
あぁ、段々とオチ見えてくるよなぁ、この二人。
「す、すまん・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
その一言で場の空気が凍りつく。薺なんか笑顔満天で凍り付いている所がまた怖い。
当然だ。今回の課題は、成績の2/3を占めるものらしい。(内容もそれに相当するほど難しかった。)
前回のテストが悪かった僕としてはなんとも有難い限りだが・・・
「薺、晃に貸すのが悪いんだよ。」
とりあえずフォローしてみる。
「あ、あはは、そうだよな、壱畝! ってそれフォローになってねぇよ!」
「・・・」
「・・・」
「・・・ごめん晃、僕には無理だ。」
「あ、やっぱり?」
「晃ぁ」
「―――」
名前を呼ばれ、薺の方を見た時には遅かった。
伝説の右フックが晃の顎を捉え、あらゆる物理的法則を無視した態勢で教室の入り口まで吹っ飛んでいく。
顎に入った瞬間、メリッという音が聞こえたが、そこは突っ込まないでおこう。
「ぉ、おおぉぉー」
入り口のドアの前にうずくまる晃。
そのうちMに目覚めるなんてことはないだろうな? 薺は既にSに目覚めてそうだけど・・・。
「い、痛いじゃねぇかよぉ! 酷い、酷いYO!!」
「五月蝿い、黙れこの駄目人間、お前なんか、お前なんかぁぁきぃぃぃ!!」
完全なヒステリック状態だった。
と、そんな事をしているうちに、もう1人の生徒が教室に入ってくる。
いつかの時と同じように、その子はドアの付近で邪魔をしている晃と薺の前でじっと立ち止まっていた。
「ちょ、ちょと晃、薺!」
「な、なんだよぅ」
「何!?」
「柳原さん来てるって。後ろ。邪魔っぽいよ。」
「え? あぁ・・・」
「お・・・」
薺と晃と柳原さんが、引きドアのレールを隔てて顔を合わせる。
「おはよう。瀬川君、飛揚さん。」
「お、おぅ。おはようさん。」
「おはよー・・・。」
3人の間で静かな挨拶が交わされる。
柳原さんの突然の挨拶に面食らった様子の晃と薺。
その光景を見て、僕は少し嬉しくなった。

『あのさ、休み時間とかまた暇だったら話でもしようよ。晃や薺・・・あ、友達も結構居るから、
みんなで話せば楽しいと思うんだ。』

昨日のあの言葉は、ちゃんと彼女に届いていたようだ。

◆

教室に近づくにつれて、聞こえてくる声も大きくなっていく。
この声は・・・確か、壱畝君の友達だ。名前は―――瀬川君と飛揚さん。
なにやらすごく騒いでいる声だ。

『うるぉぉあ、晃ぁぁぁプリントもってこぉーい!!』
『ひ、ひぃぃぃっ!!』

賑やかで、とても楽しそうな声。
私も、普通の子ならばあの中に混じってみんなと笑い合っていれるのだろうか?
毎日、暖かな温もりの中で笑って暮らし続けられるのだろうか・・・?

オマエニハ、ムリサ―――

頭の中で、私の疑問にそう返答してくる”声”。わかっている。そう、わかっているもの。
教室のドアの前まで行くと・・・
泣きながら許しを請う(?)瀬川君とその顔を踏みつける飛揚さんの姿があった。
「ちょ、ちょと晃、薺!」
「な、なんだよぅ」
「何!?」
「柳原さん来てるって。後ろ。邪魔っぽいよ。」
「え? あぁ・・・」
「お・・・」
壱畝君の声で、こちらを見る瀬川君と飛揚さん。
正直言うと、この人達がうらやましかった。
いつも笑って、話しながら。できれば、私もそうしてみたかった。
だからかもしれない。昨日の夕方の壱畝君の言葉が頭を過ぎった。

『あのさ、休み時間とかまた暇だったら話でもしようよ。晃や薺…
あ、友達も結構居るから、みんなで話せば楽しいと思うんだ。』

ヤメテオケ、オマエニハ、ムリダトイウノニ

そんなこと、わからないじゃない。

ショセン、キサマハ―――

「おはよう。瀬川君、飛揚さん。」
私は言った。
いつも、喋ることのない人物からの突然の挨拶。
もしかしたら返答に困っているのでは? と自分の中で少し後悔する。
でも、そんな心配すら無用だった。この人達に、初対面だからとか、そういったものはないのだろう。
だから彼らは笑って答えてくれた。
「お、おぅ。おはようさん。」
「おはよー。」
教室に入って、そしてもう1人。私にきっかけを作ってくれた人に・・・。

                  「おはよう。」

時計の針は、今この瞬間も止まることなく動いている。刻々と、じわじわと、時は進み続けている。
そして、進んでしまえばもう―――戻れはしない。
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