オリジナルノベル 約束

第3話

山々の木々が青く茂り、爽やかな風が街を吹き抜けてゆく。
季節は初夏。
どこまでも果てなく続く蒼空。雲は、ない。
太陽が真上近くまで昇り、今の時間が昼前だということがわかる。
時間的には一番暑い時だ。
そんな暑い中、とても気持ちのよい爽やかな金属音が校庭に鳴り響く。

カキィィーーーーン!!!

今まで誰も喋らず、静寂に満ちていた空間に一気に喧騒が沸いて戻ってくる。
「よっしゃぁ! 回れ回れぇ!!」
「っく! センター行ったぞぉっ!」
「オーライ、オーライ!」
そう、今は体育の時間。3年生になった僕達のテーマは”硬式野球”だ。
高校の授業で硬式野球をするのも珍しいと思う。
みんなが盛り上がっている中、僕は屋根のあるベンチに座って意識も朦朧に遠くを眺めていた。
思うことはただひとつ。
「あちぃー」
冬はあんなにも寒いのに、夏になると何なんだ、この暑さは。当たり前なのだけれど、
何故か納得できない。いや、受け入れられないと言った方がいいか。
「まったくだ。あいつら、よくこんな中で野球なんてできるよなぁ。」
いつの間にか横に晃が座っていた。あれ? コイツさっきまで一塁ベースに居たのに。
「あぁ、俺か? 盗塁してアウトになってやったぜ、へへへ。」
と、晃はそう言いながら悪気など微塵も見せずに笑った。
「お前、ワザとだろう?」
「仕方ねぇじゃん、暑いんだもん。」
「・・・だよなぁ。」
現状を見れば、晃のその本能的で単純な理由に頷いてしまう。
チームの仲間が聞いたら殴られそうな会話をしながら、ぼーっと試合の様子を眺める。
ちなみに今、幸いなことにベンチに仲間は居ない。

僕達男子が野球している、更にその向こうを見てみると同じようにバットを振る女子の姿があった。
女子も同じく球技だったが、どうやらソフトボールのようだった。
ピッチャーの持っているボールは握り拳大の大きいボールだ。
そして今、バッターボックスに入っているのは・・・薺だな。
ヘルメットで顔は見えないが、身長や髪の長さから見ても薺だということがわかる。
先程からピッチャーとバッターとの睨み合いが続いている。まるで、時代劇で
日本刀を構え合っている侍のような雰囲気が漂っていた。
やがて、キャッチャーからのサインが来たのだろう、ピッチャーは首を縦に一回振ると
大きめのソフトボールを大きく振りかぶり―――投げた。
「あー、あのコース、やっちまったなぁ」
晃も見ていたようだ。元々運動神経のいい晃は、ボールの弾道を先読みしたのかそう呟く。
と、同時に硬球とはまた違った景気の良い音が響き渡る。

カキィィーーーーン!!!

まるで男子並みの豪快なスイングだった。
薺の打ったボールは、凄まじい飛距離を持ってライトを軽々と越えていった。
ランニングホームラン、しかも満塁。
「相変わらず、凄いなぁ薺は。」
そう、相も変わらずの日常は今日も当然と変わらずに今を進んでいた。
変わったといえば、僕達は2年生から3年生になった。
なったけど、でも、本当にそれだけだった。実は僕の中ではもっと違うものを想像していた。
みんな受験で忙しくなって、そのうち話すのも少しの時間になっていって、
放課後には塾とかにも行って、卒業するまでは死んだ魚の目で死人の顔よろしくな表情で机に向かったりと、
そんなイメージがあった。しかし、その予想は大きくはずれた。
確かに、勉強漬けという生徒も何人かは居るようだったが、少なくとも僕とその周囲では
そんな事は全くなかった。
現に今、僕はこうして平和ボケした面で夏の蒼い空を眺めているからだ。(たまに女子の体操服姿も見るけど。)
だからといって完全に不安がないというのは嘘だけれども。でも、それでもまだ僕の想像よりはマシだった。
3年生になってクラス替えもあったものの、結局いつものメンバーになってしまう。
「なぁ、晃・・・。」
「ん?」
「お前、薺となんかあった?」
「はぁ? なんだ、急に。」
急に予想もしない質問に顔をしかめる晃。当然だ。自分でも唐突だと感じた。
まぁ、答えは分かっているも同然なのだが。
「ねぇよ、何にも。」
予想通りの答えを、おもしろくなさそうに答える晃。
「だろうなぁ」
「はぁ? だからなんだよそりゃ」
当然だ。何かあったなら何かしら今の状態から変化があるはずなのだ。
「さっさと告っちゃえば? 薺のことだからあっさりOK・・・しないよなぁ」
そうだった。相手が晃ということを忘れていた。
いくら薺のような極太精神の持ち主でも、晃から告白をされた日には少なくとも悩むか、
冗談じゃないのかと疑うだろう。
僕だってもし薺からそんなことを言われれば最低3日は頭から煙を出して考えるだろうし。
そして一番の問題は・・・薺が晃をどう見ているかだった。普段の生活を見ていれば・・・晃には少し悪いが、
薺は晃に対し、とても酷いことを平気で行うのだ。
冗談か本気かは知らないが、薺は明らかに酷いことを晃に対して行っている。
例えば―――

それは去年の今頃、ある夏の午後の授業。
ぐぅぅ・・・
その日の5限目の授業中、間抜けな音が聞こえてきた。
「おぉぉ・・・」
見れば晃が机に突っ伏している。
「どうしたんだ、晃?」
僕が聞くと、晃は首から上だけを動かして僕の方を見る。
「う、大神田先生だ。あの先生が書庫の整理を俺に手伝わせなければ俺は今頃食後のシエスタ中なのに・・・腹へったぁ」
「それは残念だね。ま、授業中に居眠りしなくていいじゃん。これを期に勉強でもするか?」
ちなみに僕も書庫の整理を頼まれていたのだが他の先生に呼ばれていると言って断ったことは黙っておこう。
「壱畝ぇー何か食べ物ないのか〜」
「ないよ、そんなもの。弁当だってきっりち食べたし。」
「くっそぉぅ〜」
ぐぅぅ。
もう一度、間抜けな音を出して晃のお腹がなる。
「何、晃食べる物欲しいの?」
晃の後ろに座っていた薺がそう言ってきた。この言い方からすると・・・
「う、うぉ!薺、お前何か持ってんのか?」
「あぁ、もうガッツかないでよ。」
そう言いながら薺は自分の鞄の中をゴソゴソと探り始める。そして出てきたのは―――サンドウィッチだ。
「う、うぉぉサンドウィッチじゃねぇかー」
「ばっ、バカ!ちょっと声大きいわよ!」
「こらぁ、そこ五月蝿いぞ! 何してる!」
教師に見つかりそうになって慌ててサンドウィッチを隠す晃。
「あ、あはは。なんもないっす。なんも。」
「ったく。お前は!もうすぐ3年になるというのにまともに授業も受けれんのか、わかっとんのか、えぇ!?」
「ええ、わかってます理解してますもうバッチリ!!」
「・・・ったく。」
まだ何か言いたいようだったが、教師は再び黒板に向かって英文を書き始める。
「ふぅ、危なかった。ま、いいか。んで薺、これ貰っていいのか!?」
「ん? あぁいいわよ。私ちょっと食欲なくて。」
「・・・あとでパシリとかないだろうな?」
ありえる。薺なら「食べたわね」とか言い出して色々と横暴を働きそうだ。
が、どうやら違ったらしい。薺は笑顔満天で言った。
「私もそこまで意地悪じゃないから。」
「なら、ありがたくいただくぜ、やっほぃ!」
晃はそう言うと、教科書を机の上に立てて姿を隠すようにするとサンドウィッチにかぶりついた。
「・・・ん?」
晃がサンドウィッチにかぶりついた瞬間、気のせいか薺がにやりと笑ったような気がした。
どこからどう見ても何か企んでいる笑い方だった。
「お、おい晃・・・」
「んー? なんか知らんがうまいぞ、これ。お前も食うか?」
「い、いや・・・別にいいよ。」

やがて時間は過ぎていき、6限目―――
この時間の眠気は最高潮に達する。
僕も眠気には勝てず、頭を横や前にふらふら揺らしながら地理の授業を受けていた。
と、何やら聞こえてきた。
「う、ふぅぅ・・・」
ん? 誰の声だろう。
「えーちなみにこの土地では林檎の栽培が世界で第一位でな。
アップルパイ発祥の地とも言われるくらいだ!」
耳を澄ますが、教師の声しか聞こえない。
空耳だったのか?
「ふ、ふぅぅ・・・」
いや、やっぱり空耳じゃない。何か聞こえる。晃にも聞いてみよう。
「な、なぁ晃? なにか聞こえな―――」
「ふ、ふぅ?」
晃が何やら凄いことになっていた。顔は真っ青で、冷や汗が体中から出ていた。
しかも小刻みにぷるぷると震えているではないか。
「げっ、あ、晃、大丈夫か!?」
「お、おおぅ・・・ちょっと、トイレ行ってくるわぁ・・・」
僕に言ったのか独り言なのか、晃はそう言うと手を上げた。
「ん? なんだ瀬川、質問か? ・・・なわけないよなぁ」
と、とても酷いことをさらっと呟きながら、晃を見る教師。
「ちょ、ちょっと、トイレに・・・」
が、晃のその言葉を教師が信じるはずもなかった。なぜなら晃は昨日―――
「貴様ぁ、また昨日みたいに途中でサボる気かぁ? 歴史の小西先生から聞いたぞ?」
というわけなのだ。
「ちょ、ちょっと、それは誤解なんすよぉー、やだなぁー」
ぷるぷる震えながら必死に弁解する晃。
「いーや、ワシは騙されんぞ。ほら、わかったら黙って座っとれ」
これは教師が悪いな、絶対。既に晃の異常は見ただけでわかる。
周りのクラスメートも「やばいんじゃねぇの?」とか囁き合っている。
が、こうなったのも自業自得であるのだから仕方ない。
と、ついに晃がキレた。
「うがぁぁ! 駄目だー! ×××――――っ!!」
何やらとてもお下品な台詞を吐きながら、走って教室から出ていってしまった。
「お、おいコラ瀬川、待たんか! おい! ・・・今学期成績1だからなお前!!」
僕は叫ぶ教師を後目に、晃が走り出した時、床に落としていった物を拾い上げる。
「ん?」
それは何かの包みのようなもので、日付が書いてある。
それは―――

『極上、たまごサンドウィッチ 賞味期限7月3日(ちなみに今日は4日)要冷蔵 開封後はお早めに』

「おい、これってまさか・・・」
薺の方を振り返る。と、何故か苦笑い。
「あー賞味期限1日切れてたの買った後に気付いて、ちょっと食べるのよそうかと思って残してたんだけど・・・
まさか本当にあたるとは・・・。」
悪魔だ、この女・・・。

夏の暑さで傷みきったたまごサンドウィッチを食べさせられた晃はあの後まる一日熱で寝込んだらしい。
よく考えれば、あの冷房のないサウナのような教室で鞄からサンドウィッチを取り出した時点でおかしいじゃないか。
とまぁそういうこともあったのだ。
これが冗談だとすればすごい体を張った冗談だ。まぁポジティブに考えるなら、
新種のツンデレ・・・と考えれば晃にも運はあるのだろうが・・・。
これがまたデレがないという絶対的な問題にぶつかってしまうのだった。
「でもまぁ、告ってもいいんじゃないの、そろそろ?」
「簡単に言ってくれるぜ。」
「じゃぁお前いつ告るんだよ。そんなこと言ってたら一生できないんじゃないのか?」
「チャンスつーか、そういう機会がないんだよ。」
「機会ねぇ。」
「こんな状況でいきなり好きですって言われてみろよ。俺なら迷う以前に疑うな。」
「まぁなぁ・・・でも、お前、ずっと前理由なんてないなんて言ってなかったっけ?」
「それとこれとは話が別だろうがよー。フラグが必要なんだよ。フラグが。な?」
「な? ってなんだよ、な? って。何事も当たって砕けろっていうだろ?」
「砕けるのか、俺」
しばしの沈黙が訪れる。結局は答えがないまま、二人揃って遠くを眺め・・・
「「・・・はぁ。」」
二人して情けなく溜息をつく。とりあえずこの暑さだけでもどうにかしないと、
頭まであのたまごサンドウィッチのように腐ってしまいそうだった。

キーンコーンカーン・・・

「あ、授業、終わったな。」

授業が終わり、更衣室で着替えを済ませた僕達は昼食を取るために教室へと戻る。
「あー、腹へったぁ」
教室に戻ると、そこにはすでに薺達、女子の姿があった。
普通、こういう着替えとかは女子の方が手間取るのではないのかと思いながらも自分の席に座る。
そういえば、相変わらずな毎日の中でもたった1つ変わったことがあった。
1つだけだが、それは晃、薺、僕という3人のいつものメンバーに大きな変化を与えた。
それは―――
「薺、これ。」
「ん、あぁ、どうだった、沙耶香?」
そう。あの柳原さんがいつものメンバーに加わったことだ。
つまり、最近の休み時間は大抵4人で話すことが多い。
去年の冬、ふとした事から知り合い、最初は少ししか話さなかったものの、いつの間にかすっかり馴染んでいた。

「お、柳原、なんだそりゃ?」
晃が興味深げに二人の会話に入っていく。
「CD、借りてたの。」
「CD?」
「そ、今流行のロックバンドよ。
ま、あんたの腐った脳味噌には音楽なんていう高等な文化は存在しないでしょうけど。」
酷い言われようだ。晃が少し不憫に思えてくる。
「お、そうか? えへへー」
・・・前言撤回だ。そもそも本人が酷いことを言われたことを自覚してないのだから不憫に思うこともあるまい。
「で、どうだった。よかったでしょ?」
「うん、結構。こういう曲も悪くないと思うわ。」
「んー、やっぱいいよねぇ、ロックは!」
柳原さんといえば、薺のような活発さはなくどちらかといえば文化タイプだ。
正直いってロックはあまり似合ってないと思うが・・・。
「さぁーて、そろそろ飯食いに行かねぇと。じゃ、俺はこれで!」
「ん。じゃね。」
「また。」
晃は自分の鞄の中から財布を取り出すと足早に教室から出て行った。
今日も学食でうどんでもすする気だろう。
「さて、じゃ、僕も図書館に行くよ。」
「そ。あんたも毎日毎日飽きないわねぇ。」
よく言う。自分だって年中屋上で弁当を食べているくせに。
だいたい、屋上より図書館の方が絶対いいに決まっている。
「薺や柳原さんも図書館で食べてみたら? 冬は暖房、夏は冷房がガンガン効いてるし。涼しいよー」
薺と柳原さんは顔を見合わせる。
「ふ、これだから都会っ子は。」
薺が呆れたように首を振る。
「屋上で太陽の光を浴びながらの食事の方がいいに決まってんじゃない。
だいたい、クーラーの風より自然の風の方が気持ちいいわよ。」
まぁ、確かにそれもそうだが、暑さ寒さの程度にもよる。
少なくとも真冬と真夏はあまり行きたくない場所だ。
「壱畝君も食べてみたら? 屋上で。結構気持ちいいわよ。」
柳原さんも最近は薺と屋上で一緒に食べているのだ。当然薺の肩を持つのに決まっている。
2対1、これでは分が悪い。早々にこの場を立ち去ったほうが得策であろう。
「あ、あはは。遠慮しとくよ。僕、都会っ子だし! じゃ!」
そう行って僕は教室を飛び出した。

図書館に行くと、珍しく誰もいなかった。
いや、正確には図書委員が1人だけ居た。恐らく大神田先生の代理だろう。
僕はとりあえず弁当の入った鞄を机の上に置くと、入り口付近の本棚へと向かう。
入り口付近の本棚には、その月に入ってきた本が並べられていくことになっているのだ。
とりあえず気になるタイトルの本はチェックを入れる。
(えっと、何か入っているかな?)
上から順番に眺めていくと、何冊か気になったタイトルもあった。
いつも読んでいる推理小説の続編や、色々な作家が書いた短編集の小説などだ。
やがて、僕はあるものを見つける。それは・・・
「な、ナウ○カだ」
そう、あの某有名アニメ監督の名作の1つだ。
(なんでここに?・・・あ。)
大神田先生が以前こんなことを言っていたのを思い出す。

『あぁ、巨神兵っていいよねぇ。』
『はい? 巨神兵・・・?』
『あれ、もう壱畝の歳になると知らないかな』
『知ってますよ。あのアニメのでしょ?』
『そうそう。で、知ってる? 原作だと喋るんだよ。』
『え? そうなんですか?』

ちょっと気になってきたので中身を拝見する。
(えーっと、どこかに・・・お、あった)
本当に巨神兵は喋っていた。
「・・・ってか図書館の本の入荷、あの先生に任せてたらえらいことになりそうだ。」
手に取った本を元の位置に戻し、再び本棚を見る。と。
「お、なんだこりゃ」
一冊の薄い雑誌のようなものがあった。
それは―――
「旅行雑誌?」
表紙を見れば、『行こう、南国の島へ!』と書かれてあり、一目見るだけで旅行雑誌とわかった。
表紙に水着姿のお姉さんが2名。こちらに向かって爽やかな笑みを送ってくる。
(あー、南国かぁ)
ちょっといいかもしれない、そう思った僕はその本を持って席に着いた。
本来ならば、図書館での飲食をしながらの読書はタブーだが、
この学校でそんな事を気にする人間なんて既に居なかった。
(ただ、高価な本は例外だが。)
雑誌くらいなら、弁当を食べながら読んでもいいことになっているのだ。
弁当を箸でつつきながら雑誌をめくっていく。
と、そこには南国特有の綺麗な海が写された写真がいくつも載っていた。
(うわー、綺麗だなこういうの。)
普通海と言えば黒いというか紺碧であるが雑誌やテレビで見る海と言えば本当に綺麗な海で、
水もまるで水道から出てくる淡水のように透き通っている。
こういう写真を見ていると、何故か清涼感が漂ってきてエアコンの冷気に違和感が出てくる。
自分って本当に単純だなぁと思ってしまう。そこで、先程の教室での薺や柳原さんとの会話を思い出す。
(確かにクーラーばっかってのも、体に悪いよなぁ・・・。)
そう思いながら、弁当箱の卵焼きに箸を伸ばそうとした時だ。
「あっ!」
視界の横から何者かの手がにゅっと伸びてきてその卵焼きを持っていく。
よく考えればそれが誰だが直ぐにわかるが、本能的に振り返ってしまう。
振り返った先には、何やら口をもぐもぐと動かす大神田先生の姿が。
恐らく、僕の卵焼きはもう還ってはこない・・・。
「ちょ、何やってんすか僕の卵焼き!」
「うむ、やっぱ壱畝のお袋さんは料理美味いね。卵焼きは砂糖の方がいいけど、塩でも十分美味しいわ。」
「・・・。」
人のおかずを盗んでおいて、その上文句まで言われた。
「まぁそう怒らない怒らない。」
笑いながら近くの椅子に座る大神田先生の左手には、何か茶色い物が握られていた。
それが何かは僕も良く知っている。先程の体育の授業でもお世話になったグローブだ。
「なんでそんな物持ってるんですか?」
「ん? あぁこれ? 今日の放課後、野球部の練習に付き合う約束なのよ。」
「はぁ?」
「いや、だから野球部」
「確か、今まではずっとバスケ部の所に行ってたんじゃないんですか?」
「あぁ、飽きちゃった。それで何かないかなーって探していたら野球部が練習してたから」
「行ったんですか?」
「そ。昨日の放課後から。結構面白いわよ〜。壱畝もアイツら誘って来たらどう?」
アイツら・・・予想しなくても晃、薺、柳原さんのことだろう。
「行きません。」
僕は、以前の経験を踏まえ、丁重にお断りした。
以前の経験、ということはまぁそういう事が一回あったわけで。
確か、バスケ部とドッジボールをした時の事だ。思い出しただけで背筋が凍る。
「全く、若いうちからこんな所に篭ってるなんて最近の子供だねぇ。」
「似たようなことを薺にも言われましたよ、それ。」
「時に少年、何を読んでるの? エロ本?」
大神田先生は、机の上に広げた旅行雑誌を覗き込む。
「あぁ、これね。いいよねぇ南国。何、あんた行くの?」
「え? いやぁ、行きたいなぁと思って見てただけですよ。」
「もうすぐ夏休みだしねぇ」
大神田先生は何やら意味ありげな笑みを浮かべてそう言った。
「なんですか?」
「いやぁ夏休み→海と来たらもうあとはもうイベント待つだけでしょ?」
「・・・イベント?」
「ほらほら、ゲームだとここら辺に選択肢出てくるじゃん、1.薺 2.柳原 3.大神田・・・みたいな?」
と、大神田先生は僕の目の前、何も無い空間を指さしながらそんなことを言う。
「・・・」
両手を使ってジェスチャーしながらそう言う大神田先生に頭痛を覚えながら残りの弁当を口へ詰め込んだ。

その日の放課後、突然薺がある事を提案した。
「ね、みんな次の日曜日、暇?」
「んぁ? あぁ、俺は暇だぜ。」
「僕も別に。」
「私も特に用事はないわ。」
それぞれ期待通りの返答に笑顔満面の薺が、鞄から取り出したのは一枚のチラシだった。
「じゃーん。これ!」
「なんだ? 映画か?」
それは映画の宣伝チラシだった。
内容はよく知らないがタイトルから今流行っている映画だということだけはわかる。
「そ。いやぁ前からこれ見たかったのよ私。一緒に行かない?」
「薺、それってどんな映画なの?」
「えーっと、それはね・・・」
聞けば何やら複雑なあらすじだったが、とりあえず恋愛物らしい。
三角関係に加えてホラー要素も組み込まれているそうだが・・・ドメスティックバイオレンスに近いネタだろうか?
しかし・・・
「あー、俺こっちみてぇ!」
晃がいきなりチラシの隅っこの方を指差す。そこには、今上映されている他の映画のタイトルが記されていた。
ちなみに晃が指差した映画は―――

『スター○ォーズ』

「却下!」
ゴスッという音と共に薺の拳が晃の顔面に入る。
スゲェ、薺の拳が消えたよ・・・。
まぁ、確かに女の子の見たいような映画ではないだろう。
「じょ、冗談冗談。まぁ、俺は暇だし、別にいいけど。」
「私も、休日はいつも暇だから。」
「よし、決まりっと。庸介もそれでいい? ってか他に何か意見ない?」
「あ、じゃ俺、スターウげぼぁっ!!」
何かを言いかけた晃が殴り倒される。
意見はないかと聞かれても、今見たい映画も特にない。しかし、映画意外なら少し僕にも提案があった。
「ね、映画以外でもいいの?」
「へ? まぁ・・・ものによるわね。何?」
「えっと海、とか?」
僕が海を提案した理由・・・それは紛れもなく昼間、図書館で読んだ旅行雑誌が原因だった。
南の島までは行けなくても、僕達の街の近くには海があるのだ。
「海、か。うん、俺はいいと思うぜ。ってか壱畝にしては名案じゃねぇか。」
「そう、ねぇ・・・海ってかプールすら最近は学校で泳いだだけだもんねぇ。」
「最近とても暑いしさ、みんなで泳ぐってのも悪くないんじゃない?」
「ん、じゃぁ予定変更! 海に行こーっ!!」
あっさりと予定は変更された。
「ノリノリだね、薺。」
「そりゃもう海だもん!」
と、薺が騒いでいるのを見ていると何やら背後で黒い影を感じ、振り返る。
「ふ、ふふふ・・・」
「な、何笑ってんだ晃?」
「壱畝、お前は勇者だ! 否、救世主だ!!」
「は?」
「薺と柳原の―――な姿を―――すれば・・・高く売れるぞぅ」
こいつは死というものが怖くないのだろうか。
「ばれたら殺されるよ、確実に。」
「ふ、俺の撮影テクを舐めてもらってはこまるぜ!」
「あ、そういえば沙耶香、あんた水着って持ってるの?」
と、薺が柳原さんに問いかける。
それは僕も思った。以前、薺や晃達と柳原さんの家に行ったことがあったのだ。

柳原さんの家は街の中にある小さなアパートで、どうやら1人暮らしをしているようだった。
本人の話によると、実家は東京にあるそうだ。
「おっはよー。沙耶香、来たわよー」
インターホンが壊れていたので薺がそう言うと、少し遅れてアパートのドアがぎぃと音を立てて開いた。
かなり古いのか、ドアの開く音も既に錆びているのが原因のようだった。
「いらっしゃい。」
部屋からジーンズに白いシャツという、予想もつかない格好で出てきた柳原さん。
薺は色々な服を持っているので、女の子というのは皆そんな感じで僕は柳原さんも、
もっと女の子らしい私服姿かと思っていた。
「何もないけど・・・とりあえずあがる?」
「ん、そうさせてもらうわ。」
「おー、柳原ん家ってアパートだったんだなぁ」
それぞれ様々な感想を口にしながら部屋へと入っていく。
そこで僕達は絶句した。何に、というレベルではない。あえて言うなれば全てに絶句したというべきか。
薺はまだ女だからわかるとして男の僕や晃まで驚いたほどだ。
何もない。確かに柳原さんはそう言ったけど・・・
「おい、壱畝。ここは何だ?」
「さ、さぁ。ねぇ柳原さん。」
「何?」
「ここって本当に柳原さん家だよね?」
「ええ。」
部屋の中には何もなかった。
テレビや冷蔵庫がなければ、ベッドや布団すらない。
借りた時のままの姿で、生活の匂いというものが全くなかった。
下手すればこの部屋を借りた時から全く何も手をつけてないんじゃないのだろうか?
部屋の隅には、今朝の朝食だったのだろう、
コンビニで買ってきた食べかけのクリームパンとペットボトルの緑茶があった。
「ね、ねぇ、沙耶香、もちろん服はあるわよね?」
言いながら薺は壁のクローゼットを開けた。果たしてそしてそこにあったものは・・・学校の制服と体操服のみ。
「あ、あんたなんて生活してんのよ!!」
「・・・?」
「いや、だからね・・・。」
流石の薺もそれ以上は何も言わず、頭をかかえているだけだった。

あの後、結局みんなで街に買い物に出かけたのを覚えている。
お金は結構あったので、必要最低限の家具や服を買い揃えたのだ。
しかし、あの時に水着まで買った覚えはない。
「水着・・・学校のなら・・・」
「お、俺はそれでもいいぜ! むしろそっちでがはぁっ!!」
極自然に薺の放った裏拳が晃の顎に入る。
「そ、そう。じゃ、とりあえず今から沙耶香は私と一緒に街へ出ましょ。」
「街へ?」
「うん。私いい店知ってるから。この前みたいに選んだげるわ。」
「わかった。それじゃ行こう、薺。」
そうと決まれば早かった。薺と沙耶香は早々と教室を出て行った。
「おーい、晃ぁいつまで寝てるんだー?」
「俺、最近疲れてきたよ・・・」
「ならちょっと言動に気を付けような?

◆

夜、世界は朝や昼とはまた違った形に姿を変える。
紺碧の空には無数の星が煌き、
大地にはいっぱいに散りばめられた宝石が輝くように街の灯りが淡く光っていた。
そんな夜、街の一角にある小さなバーでの事だ。

カラン―――
一回鈴が鳴ってドアが開き、1人の男が入ってきた。
男は革靴特有の地を叩く音を立てながら無言でカウンターの方へ歩いていく。
カウンターには1人の女性が座っている以外、他には誰も居なかった。
男は女性の隣に座ると、マスターの顔を見て飲み物を注文する。
「ホットミルクあります? 砂糖多めで。」
「・・・はい。しばらくお待ちを。」
マスターはカウンターに背を向けて何かを始めた。早速ホットミルクを作っているのだろう。
「相変わらず、甘い物が大好きなようね。」
隣の女性が男の顔も見ずにそう言った。
20代半ばの若い女性で、肩まで伸ばした黒い髪と小さくて四角い眼鏡のレンズがとても印象的だった。
「君も、相変わらずお酒大好きだねぇ大神田君・・・いや、今は大神田先生、か。」
「あら。おいしいわよ? 何ならあなたも一杯。」
大神田は、持っていたグラスを男に差し出す。グラスには、青い色をした綺麗なお酒が入っていた。
しかし、男は酒が飲めなかった。一見、渋そうな顔をして、
日本酒や焼酎が飲めそうな雰囲気を漂わせているが少しでも・・・1滴でもアルコールが入ると潰れるのだ。
その変わりと言っては何だが甘い物には目がなく、黒いコートの内ポケットにはいつもお菓子が入っていた。
「悪いね。僕、ウィスキーチョコに入っているウィスキーだけで酔っちゃうから・・・。」
「知ってるわよ、全く。面白くないんだから。たまには自分を忘れるくらい飲んだらどうよ。」
「あ、そんな事したら僕、君に何するかわかんないよ?」
冗談だろうか。男は爽やかに笑いながらそんな事を言った。
一方の大神田は口元だけ不気味に歪ませると男の頬を抓る。
「あ、イテテ・・・もぅ、相変わらず穏やかじゃないなぁ。」
そんな事を話しているうちに、男の目の前にホットミルクが入った白いティーカップが置かれる。
最後にマスターは「ごゆっくり」と一言呟いた。
「で、冗談はここまでにして・・・今日は何の用よ。」
大神田は胸ポケットから取り出した煙草の一本に火をつけながら男に聞いた。
もちろんそんな事は聞かずとも、話が始まるのはわかっていたが、
そうするのが礼儀というかそう聞かなければ話が始まらないような気がしたのだ。
「ふむ。では1つ聞くがどうだい、最近の彼女達の様子は。」
大神田の最初の疑問に、男は疑問で返した。その事に面倒くさいと感じながらも大神田は答える。
「どうって・・・普通よ。」
「普通・・・ね。」
「えぇ、普通の学生生活を送っているわ。」
「そう、か・・・。」
男は一度そう肯くとティーカップのホットミルクを一口飲む。と、その顔が幸せそうな表情に綻ぶ。
「いや、しかしそれは困ったなぁ・・・。」
「困る・・・?あんたには願ったり叶ったりでしょ。普通に生活できてるんだから。」
「・・・それはどうかな。」
「どういう意味?」
男は大神田のその問いには答えず、いきなり一気にホットミルクを飲み干した。
「ま、詳しい事は話せないってやつで。」
「・・・ふーん、まぁいいわ。」
男に続いて大神田もグラスに入ったお酒を一気に飲み干す。
「でも・・・これだけは覚えていて。今、私が協力しているのはあなただからよ。でも、
あの子達に手を出せばあなたと言えど―――」
大神田の鋭い目が、男を捕らえる。
男は苦笑しながら首を横に振った。
「あはは、そんな事しないしない。うん、約束しよう。」
「・・・そ。ならいいけど。」
「さて、それじゃ僕はそろそろ行くよ。会議があるのでね。」
「何、あんたそれだけ聞くためにここに来たの?」
「あぁ。結構参考になったさ。これで考えも纏まった。近いうちに動くかもな。」
「・・・そ。まぁ勝手にやってよ。生徒に手ぇ出さなきゃ私は何も言わないわよ。」
「マスター、ごちそうさま。これ、お金ね。」

◆

「わぁー! いい空気ー!!」
次の日曜日、僕達は予定通り近くの海へと来ていた。
街の近くにあるにも関わらず、人も少ないし、何よりも綺麗な海だった。
天気もまさに海水浴日和の大快晴だった。
「うぅーん、やっぱり今日は映画より海にしてよかったわ。」
「だな。しかし、久しぶりだなこの海に来るのも。」
晃がそう言うのもわかる。僕や薺も、中学生の頃はよく友達と一緒にこの海に泳ぎにきたものだ。
だが、高校生になってからはゲームセンターや映画館、
ショッピングなどが主になってきたので、海も段々と忘れられていくようになっていったのだ。
今もよく周囲を見渡せば、中学生らしきグループが何組か来ている。
「さーてと、んじゃ俺らは先にパラソル立てとくからお前らから着替えてこいよ。」
「ん、そうさせてもらうわ。じゃ行こ、沙耶香。」
「うん。」
柳原さんと薺は、荷物を持って海の家がある方に歩いていった。
「さて、俺達もやるか、壱畝。」
「うん。さっさと用意して泳ぎたいしね。」
持ってきたパラソルを組み立て始める。ちなみに、このパラソルの重量は結構重い。
歩いて来られる距離の海だからいいが、遠い所に行く際は持ち歩けないだろう。
そして、そんな荷物を運んだり組み立てたりするのもまた男の仕事というのが暗黙の了解というわけだ。
「あー、それにしても暑いなぁ壱畝。」
「まったく。早く泳ぎたいね。」
「なんで日本の夏はこんなにも暑いのかねぇ・・・」
「でもまぁ、よかったじゃん。」
「え? 何のことだよ。」
以前、晃は言った。薺に想いを伝えようにもその機会がないと。
海へ行く提案は全くの偶然であったが、これは早くもチャンスな状況というわけだ。
「ま、とりあえず頑張れよっと。」
「なんだ、お前。なんか今日、気持ち悪いぞ?」
「そう? まぁまぁ。とりあえず準備もできたことだし・・・」
僕は持ってきたクーラーボックスの中からジュースの缶を2つ取り出した。
氷でキンキンに冷やされたオレンジジュースとグレープジュース。
「どっち飲む?」
「ん、じゃ俺はグレープでいいや。」
「それじゃ・・・乾杯ー」
「おう。」
二人同時にプルトップを引く。
海を背景に、ジュースを喉に流し込む上半身裸の男が二人・・・熱い、熱すぎるぜ。
「ぷはぁー、うん、よく冷えてるじゃないか。」
「まぁ、今朝早くから用意したからね。」
ちなみにどれほど冷えていたかというと、飲んだ時に喉が痛くなるほどだ。
あと、その冷たさでジュースの味が殆どわからなかったりとか・・・。
正直なところ、逆に飲みにくかったりもする。
「ったく、薺達遅いなぁ。何やってんだ?」
晃が腕の時計を見る。薺達が着替えに行ってからもう結構経っているが・・・
「まぁまぁ、女の子なんだし。」
「あーそれって差別だ偏見だ。」
「違うよ・・・。」
しかし僕達男は女に比べると非常に手間のかからない生き物だとつくづく思った。
何せ上の服を脱げばいいだけなのだから。
バミューダパンツというものはとても便利で手軽なものだなと思い知らされる。
「お、来たみたいだぜ。」
「おっ待たせー!ささ、沙耶香もこっちこっち!」
薺より少し遅れて、柳原さんが歩いてくる。
僕は・・・というよりも、僕と晃はその柳原さんの姿に絶句した。といっても悪い意味ではない。
「えっへっへー、ほらどうだ男共!」
薺が柳原さんを盾にするように自分の前に出してそう言った。
「薺、何言ってるの?」
「え? いやまぁ、あははー」
「ってか薺が威張ってどうするよ・・・」
目のやり場に困るとはこういう事なのだろう。
完全に僕の目は泳いでいた。制服を着ている時も少しは思っていたが、水着を着た柳原さんを見て改めて思う。
綺麗だ。月並みな感想だが、そうとしか言いようがない。
晃の方を見てみると、流石の晃もこれには面食らっているようだ。
薺のスタイルが悪いわけじゃない。でも・・・
「いやぁ、薺、気にすんなって。お前がダメなんじゃなくて柳原が凄いだけだ、うん。」
「晃?」
「え?」
いつものツッコミだ、気にすることは何もない。
そう思った直後に何か果物が潰れたような音がしたが・・・。
「・・・どう、壱畝君?」
「え?」
突然の問いに困惑する。意識すればするほど、目を見て話せなくなる。
「どうよ、庸介。私が選んであげたの。」
「え、あぁ、そうなんだ。うん、いいんじゃない?」
「そうそう、俺もいいと思うぜ。ってかベリーグッドだ!」
何故か親指を立てながらどさくさに紛れて使い捨てカメラを手に取る晃。
しかし、それを薺が笑顔で握りつぶす。
「あ、あぁー! 薺、何すんだ!」
「殺すわよ?」
「うぅ・・・」
「ま、まぁまぁともかく、うん。いいと思うよ、二人共。」
僕達の答えに、満足そうに笑う薺と柳原さん。
「そう、よかった。」
「さ、泳ごうよっ。折角来たんだしさ!」
僕達はビーチボールなどを持つと、海へと駆け出した。

「うひゃー! 海だ、海だぜぇぇ!」
晃が水しぶきをあげながら飛び込む。そして薺も晃に続いていく。
「やっほーぅ!!」
僕もそれに続こうと思ったが、柳原さんは皆と違って水際で立ち尽くしていた。
「あれ? どうしたの柳原さん」
泳げないということはないだろう。既に学校の授業でも水泳は何度か行っているし、
その時に薺と一緒に泳いでいるのも見ている。
「海、初めてだから・・・」
「あ、初めてなんだ。入りなよ、涼しいよー」
「な、なんだか・・・後ろに倒れてしまいそう・・・」
良く波打ち際に立っていると、波が来る度に後ろへ倒れてしまいそうな錯覚に陥るが、
柳原さんが言っているのはまさにその事だろう。
しかし、ただの錯覚だけで終わる夏の海ではなかった。
「・・・あ」
柳原さんの足元に先程海に飛び込んだはずの薺が、本当にいつの間にか近づいていた。
「柳は―――」
僕が注意するより早く、柳原さんの足首を掴む薺。
そして、容赦なく海へと引っ張り込む。
「きゃ、きゃぁぁぁ―――」
柳原さんの叫びは海の波音に掻き消されていった・・・。
海の妖怪だ・・・と心で呟く。
「よっしゃ、僕も行こう!!」
晃に向かって飛び込む。
「わー、壱畝、ストップストォォップ!!」
「必殺! ドロップキィィック!」
「殺すのかぁぁ!!」

それから数時間後、どれくらい遊んだかもわからなくなる頃。
腹時計からすると、昼前だろうか。
「あー、お腹すいたなぁ。」
「え? そうか?」
「庸介、あんた体力ないわね〜。」
この場合、晃と薺が異常なのではないのか?
「じゃ、僕は海の家で焼きソバでも買って食べてくるよ・・・。」
海の家で買って食べる食事、これもまた海イベントの楽しみの一つでもあった。
「あ、じゃぁ私も、そろそろお腹空いたし・・・」
「よし、じゃ行こう柳原さん。じゃ、薺と晃ももう少ししたら戻ってこいよ。」
「おーう!」
「よっしゃ晃、競争よ! 負けた方が昼食おごりね!」
言うだけ言っていきなり1人泳ぎだす薺。
「はぁ!? 意味わかんねぇ!」

あまり人が居ない海といっても、それなりに混んでいるものだ。
特に昼間の海の家は休憩をする人や食事をとる者達で大変に混みあう。
そして、僕もまたそんな人達の一部なわけで。
「えっと・・・焼ソバととうもろこし、1つずつください。」
「あいよ。」
注文すると、1分もしないうちに注文したものが出てくる。
店側も混雑することをわかってのことだろう。
僕は無駄に筋肉質の店員にお金を渡して、さっさと荷物を置いてある所に戻った。
「はい、一応2種類あるけどどっちがいい?」
シートの上に座る柳原さんに、買ってきたものを見せる。
「えっと、じゃこっちで。」
少し迷った末、柳原さんはとうもろこしを手に取った。
確かに、とうもろこしについたタレが焦げて香ばしい香りに食欲はそそられる。
しかし、海の定番は焼ソバなのではないのだろうか・・・と僕は思う。
と、下らない事を考えていないで僕も買ってきた焼ソバを食べるため、シートに腰を下ろす。
パラソルがあるとはいえ、昼間のしかも真夏の太陽の下だ。かなり暑い。
そして焼ソバを一口食べると・・・
「・・・ぬるい」
まぁ買った時に予想はしていたが、改めて食べてみるとあまり美味しくない。
柳原さんもとうもろこしをかじっていた。
「おいしい。」
「え、あそう?」
「うん。こうやって海に来るの初めてだから。いいね、こういうの。」
「そっか、僕は小さい頃からここにはよく来てるけど・・・いいよねやっぱり。」
「うん。」
海の方を見てみると、晃と薺が一緒に泳いでいる。
いや・・・後ろを行く薺が必死に逃げる晃の首を引っ張って海に沈めていた。
・・・生きて帰れよ、晃。
「あ、そういえば、柳原さんって実家遠い所なんだよね? 小さい頃はどうだった? 
何か楽しい事とかは無かった?」
「え?」
僕のその問いに、柳原さんは言葉を詰まらせた。
「・・・。」
柳原さんは食べる手を少し止めて、海の方を眺める。どこか遠い目をした柳原さんは空を眺めているようにも見えた。
「あ、何か言いにくい事とかあったら別にいいんだけどね。その、何してたかとか知りたいなぁと思って。」
「・・・わからない。」
そう言った柳原さんは笑っていなかった。どちらかといえば最初、出会った頃のような無表情に近いような・・・冷たく
寂しい顔。
「え?」
「あんまり小さい頃の事は覚えてないの。」
「あぁ、そうなんだ。」
「それに、お父さんの仕事とかで結構、転校とかしてたしね。」
「あ・・・そうだったの。」
少し聞いてはまずかった事のようだと思い、再び海に視線を戻す。
そこに晃の姿は・・・なかった。薺が海の上に浮いているブイの横で手を上げている。
と、いうことは、勝負は薺の勝ちのようだ。
「ん・・・?」
今まで喜んでいた薺が急に慌てふためきだした。両手をバタバタと忙しく振り回し・・・海に沈んだ。
その変わりに、そこから晃が顔を出した。
「は、ははは・・・」
既に競争ではないみたいだ。
「本当に、いいね。こういうのって。」
突然、柳原さんが呟くようにそう言った。どうやら柳原さんも晃や薺の方を見ているのだ。
晃達の方を眺めながら、薄く微笑んでいた。出会った頃と比べれば、今は別人のように明るくなったと思う。
「うん。ね、言ったでしょ?」
「え?」
「みんなで話したり、遊んだりするの。悪くないでしょ。」
「・・・うん。そうだね。悪くない。まるで、夢を見ているみたい。」
そう言った柳原さんは笑ってはいたがどこか儚くて、切なく感じた。
「ねぇ、壱畝君? 少し聞こうと思ってたんだけど・・・」
「え? 何か―――」
柳原さんの問いに答えようと彼女の方に振り向こうとした時だ。
「あぁぁああ壱畝ぇぇ死ぬぅぅ」
息を切らした晃が命からがらという感じで海から戻ってきていた。
地に平伏す様は、死にかけのようにも見える。
「あははー!さ、晃。仕方なく昼食をおごられてあげるから感謝しなさい!!」
「ひぃぃ」
「じゃ、私は焼きソバとイカ焼ね!」
「ふ、2つも食うのかよ!!」
「あったりまえじゃん! さ、さっさと買いに行ってきなさい!」
「しかもパシリか!」
「・・・。」
もう一度柳原さんの方を見てみる。が、彼女は晃と薺を見て笑っていた。
(そんなに重要なことでもなかったみたいだし、別にいいかな?)
そう思った僕は残った焼ソバを一気に口に含んだ。

◆

「あ、あぁぁだりぃぃ」
既に日は傾き、薄暗くなっていた。海でこれでもかと遊んだ末、今は帰り道を晃と2人で歩いていた。
ちなみに、薺と柳原はどこか買い物に行ってから帰るらしい。女という生き物はつくづくタフなものだと思う。
「薺と競争なんかするからだよ。」
「いやだってさぁ、昼飯おごりだぜ? 普通は誰でもやるよ。」
「相手を選べ、な?」
ちなみにあの後、焼ソバとイカ焼どころか、ソフトクリームまでおごらされていた。
ああいった海の家とかで売られている飲食物というのはスーパーで買うよりも3、4割ほど高いものだ。
今は夏だというのに、自分と薺の分の食費を払った晃の財布の中は、冬より寒かった。
「あぁぁあぁ・・・明日の昼飯どうすんだよぉぉ」
「まぁまぁ学校もあと一週間ほどで休みじゃないか。」
そうなのだ。あと一週間もすれば、待ちに待った夏休みなのだ。
といっても、高校3年の僕達は、夏休みの半分が補講授業なのだろうけど・・・。
「でもさぁ、夏休みに入ると、本格的に補講はじまっちまうよなぁ。」
「え? あぁ、そうだな。」
「なんかさぁ、寂しくなるよなぁ当分の間。遊べなくなりそうだしさ。」
薄い紺色の空を見上げながら、晃は言った。やはり、晃もこの夏休みは勉強をするのだろう。
しかし、本当に補講授業が始まると、みんなと会う時間も極端に少なくなってしまうだろう。
そこで僕は提案した。
「ね、それじゃぁさ・・・夏休み入る前にもう一度皆でどこかに行かない?」
「まぁ、それもいいけどな。」
「丁度、薺も見たい映画あるって言ってたしね。」
「・・・。」
薺の名前が出た途端、突如テンションが下がる晃。
「どうだったの、今日。」
今日という日は薺に想いを告げるには丁度いい日だったはずなのだ。
「さぁ。わかんねぇ・・・。」
「わかんないって・・・お前なぁ。あれだけ2人だけの時間あったんだろ?」
「なぁ、俺、このまま卒業しちまうんじゃねぇか?」
「あぁ、本当にこのまま何もなく卒業しちゃいそうだね、今のお前達見てると。」
つまりそんな話を聞くということは、進展が全然なかったようで、言うなれば、恋の芽さえ出てこない状況だろう。
「うあー・・・そんなことより、お前どうなんだよ。人のこと心配してられる立場かよ。」
そうなのだ。僕は晃の事を心配する以前に自分の将来もまだ決めていなかった。
未だに就職にしようか進学にしようかは迷っているところで、
どこか遠い所に住みたいとなると進学というのが一番いいと思う。
今の成績なら、そんなには良くなくても普通の大学には入れるだろう。
しかし、やりたいことがないのでどの学部に行くかで非常に悩むことになるだろうし、
その選択で僕の人生は何十、何百通りの可能性が生まれるのだ。
「いい機会じゃないか、経済学部にでも入って大物になれよ。」
「経済なんて興味ないよ、僕。」
というかこいつの中では経済学部=勝ち組のようだ。
「じゃぁ・・・工学部で一流の職人に」
「職人なんて気質持ち合わせてないよ、僕。」
「んー、医学部とか・・・は?」
最後のこれは流石に無いと思ったのか、少し躊躇いながら言う晃。
「入れたところで勉強についていけないだろうね。」
「うがー!! なら一体何がしたいんだよお前は!!」
それがわからなくて困っているんじゃないか・・・。
晃は「うーん」と唸りながら最後に1つ、苦し紛れといった風に言う。
「・・・恋だ。」
「なんだよ、突然・・・。」
「いや、もう勉強やらないんだたら青春路線突っ走れお前。」
「はぁ、お前じゃあるまいし・・・」
「なんだよ、別にいいじゃん。今日だって柳原さんと結構いい感じだったじゃんかよ。」
あの2人で話していた時の事か。
「何話してたかは別として、端から見れば結構様になってたぜ。」
「見るだけならな。」
「ってかどうなんだ? お前って、本当に好きな奴居ないのか?」
「・・・どうだろうな。」
そうだ。今、晃に気付いて初めて思う。僕は、昔から異性を恋愛対象として見たことがなかった。
今の薺との関係がそのいい例だ。いや、むしろ薺としか遊んだ事なかったじゃないか・・・。
薺の他に身近に居る異性といえば・・・柳原さんだ。彼女は、どうだろうか。
出会いは確かに突然だったけど、でも物静かでとても綺麗で。
なんて言えばいいのだろうか・・・。不釣合い?
「おい、壱畝! 聞いてんのか!?」
「え? あぁ、何?」
「俺、こっちだから」
晃は別の道を指差しながらそう言った。
「あ、あぁ。じゃ、また明日な。」
「おう! 遅刻すんなよ!」
「そりゃお前だ。」
最後に軽く言い合ってから僕達は分かれた。
「・・・恋か。」
一体僕は誰が好きなんだろうか・・・。

◆

私と薺は壱畝君達と別れた後、街のファーストフード店に居た。
「あー、今日は楽しかったね〜。」
今は、運んできたハンバーガーをかじっていた。
「うん。 薺はやっぱり泳ぐの上手いね。」
「え? あそう?」
「運動、得意なの?」
「うん、まぁね。小さい頃から色々とやったし。」
「そうなんだ。」
私も、運動が得意といえば得意な方だろう。でも、それはスポーツとかそういうものではない。
日常生活では全く役に立たないような特技ばかりだ。そう考えると、自分の存在が非常に薄く感じてしまう。
薺だけでなく瀬川君や壱畝君を見ていても、羨ましく思うことは多い。
「そういえばさ。」
「え、何?」
「今日、庸介と2人で話してたけど、あの暑い中よくじっと話してたわねぇ。」
「暑いの苦手じゃないから。」
「ふーん・・・私なんてじっとしてるの無理だけどな。で、何話してたの?」
「ん、さっきと同じようなことかな。」
「同じって?」
「楽しいねって。」
「ああ、そうなんだ。」
でも、本当は違う。私はもっと別の事を聞きたかったのだ。
最後に聞こうとしたけど、結局聞けなかった。
薺なら、わかるだろうか?
「・・・。」
「ん? な、何かな、私の顔何かついてる?」
「少し、聞きたいことがあるの。」
「え?」
「どうして、みんなは私と仲良くしてくれるのかな?」
ずっと、昼間、壱畝君に聞きたかったことを薺に問うてみる。と、薺は少し困った顔をする。
「どうしてって・・・。」
「私、友達とか始めてだから。・・・やっぱりこんな事、考えるの変?」
「え? いや、そんなことないと思うけどね。あの馬鹿達にも見習わせたいくらいよ。」
そして私の問いに、薺は優しく微笑んで言った。
「んー、寂しいからじゃない?」
「・・・え?」
「みんなさ、1人じゃ寂しいんだよ。」
「寂しい・・・」
「そ。1人で居るより、皆で居た方が楽しいでしょ?」
「・・・うん。そうだね。」
全て理解できたわけじゃない。でも・・・なんとなくわかったような気がした。
壱畝君が、最初に声をかけてくれた理由が・・・。
そして、私が壱畝君や薺、瀬川君達と居たいと思い続ける理由が・・・。

◆

夜11時。この日の夜は珍しく寝付けなかった。
「・・・。」
ちょっと海ではしゃぎ過ぎて、まだ興奮が冷めないのだろうか。
いや、でも部屋が暑いせいもあったかもしれない。
ベッドと机の下を見てみると、七雄とシロはもう丸くなって寝ていた。
飼い猫で、周囲に警戒をしていないためか快眠状態だ。
他人が来てもこのまま寝続けるんじゃないだろうか・・・。
窓を開けてみると、涼しい風が入ってくる。
(少し散歩でもするかな・・・。)
僕はラフな格好に着替えると、家を出た。

散歩をするために家を出た僕だったが、どこに行くかなんて全然決めていなかった。
もうこの時間になってくると、近くのコンビニしか開いてないだろう。
(別にいっか、時間はたっぷりあるし。)
僕は星空を一通り眺めると、そのまま歩き出した。

月がとても綺麗だった。漆黒の海に銀色の宝石が1つ浮かんでいるように。
月が、そして星が視界一杯に入ってくる。
こんな夜は街灯がなくても薄明るいだろう。
夏の夜風が、僕の心を静かに凪いで行く。
こんな静かな場所を歩いていると、昼間の喧騒なんて夢のようだった。

しばらく歩いていると、僕がいつも猫を散歩に連れて来ている公園まで来ていた。
もちろん公園に人は居ない。
(少し、寄ってくか。)
僕は公園の中へと入っていった。

公園には様々な遊具があった。
滑り台やシーソー、ジャングルジム、それにブランコ。どれも子供の頃に一度は遊んだものばかりだ。
「懐かしいなぁ・・・」
あぁ、本当に懐かしい。僕は近くにベンチを見つけると、空を見上げるように仰向けになった。
星空しか見えない。
(思えば、この公園でも色々な事があったなぁ。)
そう、まだ僕が小さな頃、この公園で薺とよく遊んだものだ。
そういえば薺と一緒に遊んでいた時、薺がブランコから落ちて大泣きしたこともあったりする。
晃は、高校からの友達なのでその頃は居なかったけど、他の子とも結構遊んだりした。
よくグループを組んで、鬼ごっこやかくれんぼを夕方遅くまでしたのを覚えている。
(あの頃は平和だったよなぁ・・・ったく、今じゃ世に言う受験戦争の最前線だもんなぁ)
そう思うと、あの頃がとても羨ましい。
「ふふふ・・・」
「?」
突然の笑い声に、僕は公園を見渡してしまう。
いや、それは笑い声というよりも含み笑いといった方がいい。そしてどこか優しかった。
と、突然―――
「うわぁぉ!?」
目の前に女性の顔が現れ、驚いた僕はベンチから転げ落ちた。しかも後頭部から地面に叩きつけられる。
「痛って・・・」
「大丈夫、壱畝君。」
それは、柳原さんだった。
薺に選んでもらったものだろう、白いワンピース姿だった。
「こんばんわ」
「あ、あぁ。」
風がゆっくりと僕達を凪いだ。柳原さんはお風呂にでも入ったのだろうか、
風になびく黒くて長い髪はいつもより艶があった。
「隣、座ってもいい?」
「うん、どうぞ。」
僕の隣に座ると柳原さんの方から石鹸のいい匂いがほのかに香った。
「壱畝君は、寝てること多いよね。」
「え?」
最初は何を言っているかわからなかったが、最初出会った時を思い出す。
「あ、あぁ、あれはたまたま滑って転んでただけだよ。」
恥ずかしさに、苦笑いをしながら僕は言った。
すると柳原さんは、何も言わずに空を見上げた。
「わかるよ。」
「え?」
「空って、綺麗だもの。」
「・・・そうだね。」
月に照らされる柳原さんの白い肌はまるで透き通ったように綺麗で、とても魅力的だった。
隣で、間近でその光景を見ていると、本当に幻想的と思えるほどだ。
と、僕がぼーっと柳原さんを眺めていると、彼女が不意に僕の方へ顔を向けた。
同時に目と目が合う。
「・・・っ」
よく考えれば、こうして間近に顔を合わせてゆっくり話すのは初めてかもしれない。
だからだろうか、月光の下、薄暗くても柳原さんの顔がとても綺麗だということがわかった。
一瞬だけ、言葉に詰まった。その一瞬の間に、柳原さんの方から喋りかけてきた。
「私ね・・・よく空を見ていたの。」
「空を?」
「そう。空ってどこまでも続いてるでしょ? 終わりなんてない・・・果てのない空。」
「・・・うん。」
「私は飛びたかったんだと思う。」
「飛びたいって・・・」
「そのままの意味。鳥のように、どこか遠くへ飛んでいきたいって思った。
空の果ての果てまで飛んでいけば、どこか違う世界に行けるんじゃないかって。」
再び夜空を見上げた柳原さんは、更に続けた。
「今思うと、私、一人で寂しかったのかな。でもね・・・今はそんな事ないの。
空を見上げることなんて、なくなったわ。」
「え?」
「それは、壱畝君のお陰。」
そこで僕の名前を挙げられて、僕は少し戸惑った。
「あの時、壱畝君が声をかけてくれたから・・・瀬川君や薺が今、こうして仲良くしてくれるから。
今は、とてもとても楽しくて、もう空を見上げることなんてなくなったの。」
「・・・そう。それは、よかった。うん、よかった。」
「だから、お礼を言わなくちゃ。ありがとう。」
再び僕の顔を見て、柳原さんは満面の笑みでそう言った。
その笑顔は、純粋な子供のそれと同じだった。
「・・・うん。」

「でも、よく来るの? 夜の公園に。」
「ううん。今日はたまたま。涼しくていい夜だったから。」
確かに部屋に居ると暑かったが、こうして外に出てみると結構涼しいものだ。
コンビニで冷たいものでも買おうかという考えもいつの間にか消えていた。
こんなに良い夜なのに、明日はまた学校がある。
まぁ、学校に行くのもあと1週間だけだ。あと1週間すれば夏休みが始まるじゃないか。
「そういえば、あと1週間で夏休みだね。」
「うん。壱畝君は、進学するの?」
「・・・わからない。まだ全然決めてないんだ。」
「そうなんだ。ちょっと意外だな。」
「うん、晃にも言われたな。でも、僕、やりたいことがないから・・・。」
そりゃ子供の頃は当たり前のように夢を持っていた。
子供の頃の僕の夢は、学校の先生。理由は、遠足や修学旅行に毎年行けるからといういかにも子供染みた夢。
教師になるには大学に入って教員免許を取り、更に採用試験も受けなければならない。でも僕は、諦めていた。
話に聞くと、教師になるにはかなりの学力が必要だそうだ。
そして、免許が取れても採用試験を受けなければ教師にはなれない。
試験の倍率も想像できないくらいに高いらしい。
僕の成績は人並みに取れても、またはそれの少し上を行くかもしれないがずば抜けて良くはない。
所詮は子供の夢だったということだ。
「柳原さんは・・・?」
「私? 私も・・・私も同じかな。まだ、わからない。」
柳原さんは、俯いてそう言った。表情はわからなかったが、声にいつもの明るさはなかった。
いつもの明るさの変わりに、不安とも悲しみともとれる表情を見た。
何か変だなと思いつつ、僕は話題を明るいものへ変える。
「あ、そうだ。夏休みまで一週間だけどさ、それまでにまた一緒にどこか行こうよ。」
「え?」
「今日、帰りに晃と話したんだけどさ、夏休みに入ると補講とかで忙しくなるでしょ?
だから、最後にみんなでどこかに行かないか、って。」
「うん、わかった。覚えておくね。」
「さ、それじゃもう時間も時間だし・・・。」
「うん、それじゃ、おやすみ。」
「じゃ、また明日!」
僕達は別れの挨拶を交わし、それぞれ別の道を帰った。

夏休みまであと一週間。この一週間が僕にとって、そして薺、晃、柳原さんにとって
一生に忘れられない一週間になることなど、知るはずもなかった―――。

◆

月曜日。それは、週の始めで、一週間の中でも最もだるい日でもある。
休み明けというのは、朝からだるかったりするものだ。
「あぁ・・・暑いし、だるいし、しんどいし、体重いし・・・」
薺が珍しく机に突っ伏して念仏のように何かブツブツと呟いている。
まぁ昨日あれだけはしゃげばこうなるのも当然か。
「ま、一言で言えばやる気0%だよね。」
「え? あぁそうとも言うわね。」
「薺、死んだような顔になってる。」
「え? あぁそう? それより沙耶香、あんたはもう全然平気みたいね。」
「うん、体力は人並み以上にあるから。」
(・・・そうだったのか?)
柳原さんはどう見ても運動神経は鈍そうなんだけどなぁ・・・。
「ってか、晃の奴、本当に今日休む気かな。」
ちなみに今は3時間目が終わった後の休み時間だったりする。
「あぁ、あいつは休みよ、休みー。こんなにだるいのにあの馬鹿が来るはずがないわよ・・・」
「もう末期っぽいね、薺。」
「そう?」
といっても僕だって今日は8割方晃は休むものだと考えていただけに、突然開かれた教室の扉に驚く。
「うぃーっす、おっはよーさん。」
「って、遅刻しすぎだ、お前。」
「おはよう、瀬川君。」
「おーぅ壱畝に柳原、元気してたかぁ? お? 薺が珍しく死んでるじゃないか。」
「うぁー晃、なんであんたまでそんなに元気なのよ」
「え? 俺か? 俺は10時まで寝てたからなぁ、すっかり元気君というわけだ。」
「お前は・・・留年しろ。」
「まぁまぁ。午前中を頑張った君達に俺からのささやかなプレゼントだ!」
そう言った晃は、肩にかけた鞄から買い物袋を取り出した。
その中には、結露ができて清涼感漂うジュースのペットボトルが4本。
それを見た薺が、机に突っ伏していた体を目にも留まらぬ速さで起こす。
「よ、よくやったわ晃! あんた気が利くじゃない!!」
薺が袋に手を入れようとした時だ。
「ちょっと待った。」
「え?」
晃が薺を止める。そして、4本のペットボトルを机の上に並べはじめる。
「えー、ハラハラドキドキ、ロシアーンルーレットー!!」
と半ば棒読みで叫ぶ晃。
「な、なんだよ・・・それ」
「ロシアン、ルーレット?」
「またつまんないこと考えたわね・・・。」
「まぁまぁ、ルールは簡単。この4本のペットボトルのうち1本は・・・学校に来るまでの間、
俺が自分の懐で温めたやつだ。」
そう、つまりこの4本のうち3本は冷えたジュースで、残りの1本は―――
「体温ですニャ」
「そのネタはやばいからやめとけ」
しかし、これは見破るのは簡単じゃないのだろうか?
結局、ペットボトルに結露が出来ていないものを探せば―――
「あれ?」
目を凝らしてよく見てみる。が、4本ともペットボトルは水に濡れていた。
「あぁ、そりゃもちろん学校の玄関にある水道で全部濡らしてあるからな。
濡れていないの探そうったてそうは無理だ。当然だが、ペットボトルには触るなよ。」
むぅ。流石の晃もそこには気付いていたようだった。普段は間抜けなくせにこういう悪知恵だけは人並み異常に働く。
しかし、そうなると、もうこれは運任せしかないのではないのだろうか。
薺は暑さで半分、意識朦朧。もう考えることも難しい状態だ。
柳原さんは・・・先程から黙ってずっと4本のペットボトルを見ている。
「さぁさぁさぁ! 選べよ、人生のヒヨッ子共!!」
ちなみにジュースは全部コーラだ。
「えっと・・・うーん・・・」
「じゃぁ私はこれを貰っていい?」
まず、柳原さんが一本手にする。
「あいよ。」
「もうどれでもいいや。私、これ貰うね。」
続いて薺が、これまたとても面倒臭そうに一番近くに置かれてあったペットボトルを適当に手に取る。
僕が残りの2本で迷っているうちに、柳原さんと薺がペットボトルの中身を口に含む。
「・・・。」
「・・・冷たい。」
「ん、やっぱ夏は冷えたコーラね! 生き返るわ!!」
どうやら2人ともセーフだったらしい。
ということは、この残る2本のうちどちらかの1本がハズレというわけか。
(うーん、と、どっちが・・・)
僕が、どちらか考えていた時だった。晃が手を伸ばそうとする。
「って、ちょっと晃、お前答え知ってるのに何先選んでるんだよ!!」
晃は、机の上に並べる時にペットボトルに触れているので答えはわかっているはずだ。
「えー、いいじゃねぇか別に」
「よくねぇよ!!」
と、晃が突然、制服のブレザーの内ポケットからポッキーを取り出すと、
その一本を口に加えて、大神田先生がいつもやるように息を一回大きく吐く。
どうやら煙草のつもりらしい。
「ふ、細かいことをごちゃごちゃとぬかしている内はまだまだだな、坊主〜」
もうこいつのテンションについていけないのが正直なところだ。
「本当、庸介ってお子様なんだから。」
「お前が言うな、お前が!」
「壱畝君、頑張れ。」
唯一応援してくれるのが柳原さんというのは哀しすぎる。
しかし、晃が先に選ぶとしても、条件次第ではまだこちらにも勝ち目はある。
いくら、晃が答えを知っているといっても、ペットボトルは全部同じコーラなのだ。
ということは・・・
「じゃぁこうしよう。」
僕は言ってから右手と左手、それぞれに1本ずつ、残りの2本を手に取った。
その瞬間、答えがどちらかわかった。
冷たいコーラは右手のペットボトルで、ぬるいコーラが左手のペットボトルだった。
「あ、こらお前! ペットボトルに触れるのはなしって言っただろ!」
「まぁまぁ、落ち着けって晃。選ぶのはお前から選んでいいよ。」
「え!? マジ!?」
「ただし、条件がある。」
「な、なんだよ・・・」
これは一種の賭けだ。
普段の晃を見ていると、学力は中学生並だ。いや、それ以下かもしれない。
「なにするわけ、庸介?」
「今冷たいコーラは右手にあります。さて、じゃぁ問題です。
この左右のペットボトルを1000回入れ替えた時、冷たいペットボトルは右にあるでしょうか、
それとも左にあるでしょうか?」
「・・・え?」
「この2本を1000回持ち変えた時、どっちが冷たいボトルなのかって聞いてるの。」
「え? ええぇぇ!? んなもん反則だろーが!」
「ふ、細かいことをごちゃごちゃとぬかしている内はまだまだだな、坊主〜」
「・・・よぉぉし!やってやろうじゃねぇかこの野郎!!」
やった乗った。
「あーあ、晃負けたね」
「・・・瀬川君かわいそう。」
「外野うっせーぞ!」
ちなみに答えは当然右。少し考えればすぐわかるような問題だ。
「え、えっと・・・10回、11回、12回・・・え? あれ? くそ、やり直しだ・・・えっと・・・」
恐らく、僕が2択で選ぶよりこっちの方が安全だ。
1000回という微妙に大きな数字を出された晃はすでに錯乱モードに入って1から順に数えていっている。
普通はどんなに遅くても10回目くらいで気付くものだが・・・
「さぁ、さぁさぁさぁ、早く選んだらどうだぁ〜坊主〜」
「ち、畜生〜!!」
「おや、こんな問題もわからないと!」
「わ、わかるさ! 一応念のための確認をだなぁ・・・えっと15回、16回、17回・・・」
「ほらほら、わかってんならさっさと言っちゃえよ」
「う、うううぅーわかってるぞぅ! 左だろ! あぁ、答えは左だこの野郎!」
「真性の馬鹿だわ、こいつ・・・」
「薺、それはいくらなんでもかわいそうだよ。」

◆

その日家に帰ると、誰も居なかった。変わりに机の上に一枚のメモ書きが置いてあった。

『今日はO県の温泉に行って来るので、帰りは明日になります。夕飯は自分でなんとかしてください。』

「・・・マジっすか。」
机の上にはメモ書きと一緒に一枚の千円札が置かれていた。
これで今日の夕飯と明日の朝食を買って来いというわけだ。今は夏だし、暗くなるにはまだ少し時間がある。
(仕方ない、明るい内に買い物を済ませるか。)

そんなわけで僕は近くのスーパーへ向かった。
スーパーの入り口には店の広告が張り出されていて、僕はそれを見るのが少し楽しみだったりする。
この広告を見ているだけで、夕飯のメニューがいくらでも頭の中に浮んでくる。
(えっと、今日は何か安くなってないかな―――)
上から順番に見ていくと、今日の特売品などが順に表記されているのがわかる。
(えっと今日は玉ねぎとピーマンと、あと豚肉が安くなってるな。あ、こっちは―――)
まるでお宝を物色するように広告へ目を通していると、気付かない内に僕の他にも
2、3人のお客が広告を見ていた。
「えっと、あ、卵がLサイズ99円・・・今日はオムライスかなぁ」
「え?」
近くで聞いたことのある声がしたと思って横を振り向くと、薺が広告とにらめっこをしながら色々と呟いていた。
「おーい、薺。」
「あ、庸介じゃん。どうしたの? 珍しい。おばさんに買い物でも頼まれたの?」
「え? あぁ、うん。また旅行で居なくなって、それで今晩は僕が食事作らなきゃいけないんだ。」
「あー、おばさん旅行好きだもんねぇ。」
「んで、薺は―――」
聞くまでもなかった。薺も夕飯のための買い物だろう。
私服姿に、買い物専用の肩掛け鞄だったので大体の予想はつく。
「そ。お母さんに買い物頼まれたからついでに私が今夜の夕飯作るの。」
「へぇ。」
色々と2人で話しながら、店内を徘徊する。
流石は薺といったところか、先程から安くて実用的なものしか籠の中に入っていない。
それに引き換えて僕はというと、籠の中には・・・サイダーのペットボトル、ポテトチップス、
おつまみ用のさけるチーズ・・・。我ながら不健康極まりなく思う今日この頃といったところだ。
実は広告を見てメニューは思いつくのだが、作れないものばかりなのである。
「薺は今日、何作んの?」
「え? 私? 私はオムライスか・・・それか野菜たっぷりの八宝菜もいいなぁ。で、あんたの方は・・・」
薺が僕の持っている籠の中を見て、顔面蒼白になる。やはり、いやかなりの問題がありそうだ。
「あんた、これ夕飯?」
「え? まぁ一晩くらいいいんじゃない? あ、あと父さんにはカップ麺買ってかないと・・・」
「はぁ、もういいわ。ほら、庸介、今すぐそれ全部返してきなさい。」
「え? なんで?」
「いいから。私が作ったげるから。」
「あ、本当?」
最近は、薺の料理を食べる事も少なくなったが・・・というか全然食べる機会がなくなったのだが、
その腕はかなりのものだ。
作ってくれるというのならば、拒否する理由はどこにもない。しかし―――
「あ、じゃぁ薺んとこの夕飯は? 今日は薺が作るんだろ?」
「うーん、まぁ買い物だけして帰れば後は母さんが自分でやるでしょ。」
そんなわけで幸運にも不健康な夕飯だけは何とか免れた。

買い物を終えて家に帰ると、僕は部屋に戻って七雄とシロの夕飯の準備をしていた。
今日は少しゴージャスにキャットフードにツナ缶を混ぜる。
それをしばし箸で混ぜながら、思う。
(あー、マヨネーズ入れてぇ・・・)
やはり、ツナ缶にマヨネーズを混ぜたくなるのは人間としての本能だろうか。
いや、ツナ缶とマヨネーズにはもっとこう・・・運命的なものを感じる。
食事って奥が深いなぁ。
「・・・猫ってマヨネーズ食えるのかな?」
試したいけど、お腹を壊しそうだし大丈夫だったとしても癖になって太ったら困る。やはりやめておこう。
「さぁ、ご飯だぞー」
混ぜ終わった餌が入った皿を二匹の猫の前に出す。と、二匹はその皿に素早く飛びつく。
人間が見てもあまり美味しそうとは思わないキャットフードだが、七雄とシロはそれをとても美味そうに食べる。
(なんか見てるとこっちまで腹減って来るよなぁ・・・)
お腹が減るのには、他にも原因があった。それは匂いだ。もちろんキャットフードの匂いではない。
先程から、一階の方から何やら美味しそうな匂いが漂ってきている。
そう、薺が何かを作っているのだ。”何か”というのは、まだ僕にも分からないのだ。
ただ期待して待っていろと言われたので、こうして部屋に居るのだ。
少し香ばしい匂いがとても空腹を促す。この匂いだと、もうそろそろ完成ではないだろうか。
そう思った時、丁度偶然、一回から薺の声がする。
「庸介ー、できたよー!」
「わかった、今行く。」

居間に行くと、テーブルには色々な料理が並んでいた。豆腐と玉ねぎとじゃがいもを使った味噌汁に、
レタスやトマト、ツナにコーンが入ったサラダ。そして、香ばしい匂いの正体、豚肉の生姜焼きだ。
この暑い夏の季節にスタミナのつく生姜焼きはかなり嬉しい。
「こ、これ全部薺が作ったのか?」
「まぁねー。」
恐るべし。今日、昼間の学校での薺の姿からは予想もできない特技だ。豚肉を一口食べてみると、
口の中で生姜とにんにくの香りが程よく口の中で広がり、醤油や塩の加減も絶妙だ。
「う、うまい! 最高だね、これ!」
これがまた白いご飯によく合う。生姜焼き一口に対し、ご飯が五口の割合だ。
「ま、私の手にかかればこんなもんよ。」
机の端の方には、生姜焼きがもう一皿盛り付けられて、ラップがかけられていた。
おそらく父さんの分まで作ってくれたのだろう。
そういえば、いつもならもう帰ってきてもいい時間なのにまだ帰ってこないところからすると
残業でもできたのだろうか。
「それより、また腕上げたんじゃないの、薺。」
以前、薺の作った料理を食べたのは―――もう2年くらい前か。それから見ると上達しているのは当たり前か。
「まぁ、月の半分は私が夕飯作ってるしねぇ。学校の弁当はずっと私が作ってるけど。」
「げ、毎日弁当作ってるの? そりゃ腕も上がるな。」
「将来、私をお嫁に貰う人は幸せだねぇー」
「・・・。」
「ん、どうしたの? 急に黙って。」
「いや、それを自分で言うのはどうかと思うな。」
「別にいいじゃん」
今の薺を見ていると、確かに家事は完璧だが人格的に大神田先生によく似ていたりもするしなぁ。
とまぁそれは冗談として・・・。先程の薺の言葉で少し気になったことがあったのだ。
いや、前々から気になってはいたのだけれど、それは、薺が晃をどう見ているかだ。
まさか、本当にいつものように馬鹿にしているわけじゃないだろう。
「そういや薺、この前見たいって言ってた映画あったよね?」
「え? あぁまぁね。結構おもしろいって噂だったから見に行きたかったんだけど、まぁ海も楽しかったしね。」
「知ってる? あの映画、次の日曜で終わりだよ?」
「え、ウソ?」
もちろん嘘だ。
「ね、だったら木曜日一緒に行かない? 私部活ないし」
「あー、悪い、僕今週はちょっと用事で放課後は忙しいんだ。映画はちょっと無理だなぁ」
「はぁ・・・そう。沙耶香か美都と行こうかなぁ」
僕は飲んでいた味噌汁を吹きそうになった。そりゃ薺には薺の生活があって、
僕達以外に友達も結構居るだろうが・・・。普段これだけ一緒に遊んだりしていて、晃が候補に上がらないとは・・・。
しかも、去年友達になったばかりの柳原さんが思い浮ぶのに・・・これが女の友情というやつか・・・。
「晃は? あいつ、放課後はいつも暇だよ?」
「うーん」
お、考えている。こういう反応って色々知ってると見ていて結構おもしろかったりする。
人間観察の1種だな、と僕は勝手に納得する。
・・・こんなことしてると悪い気もするけど。晃のためだ、仕方ない。
「晃ねぇ。だってあいつ絶対恋愛モノの映画興味なさそうでしょ?」
「僕ならあったていうのか・・・」
「まぁ、晃よりは。ってか、晃は100%アクション映画でしょ。ダ○・ハードとか」
ちょっと渋すぎないか、そのタイトル。
「へぇ、じゃぁアクション映画だったら晃と一緒に見に行く?」
「まぁ・・・。でも私アクション映画はレンタルでも別にいいしね。あいつと映画行くってのはないなぁ」
決定的な一言だった。
「ふーん、そうなんだ。」
「ってか、あいつ上映中に寝てそうじゃない?」
「あ、それはあるな、うん。」
「それより、私もお腹すいたなー」
そういえば、薺も料理を作っただけで食べていない事に気付く。
「その別の皿に盛り付けてあるの食べたら? ご飯入れてあげるから。」
「え、でも―――」
「いいからいいから。自分で作ったんだから遠慮もないだろ?」
「う、うん。」
その後も、2人で色々話したりしている内に、時刻は8時を回っていた。
玄関のドアが開き、父さんが帰ってきたことを知らせる。
「ただいまー。なんだ庸介、母さんいないのか?」
「うん、O県まで温泉旅行だってさ。」
「お、薺ちゃんじゃないかー、久しぶりだねぇ。元気にやってるかい?」
「こんばんわ、おじゃましてますおじさん。」
鞄を部屋の隅に置いて、上のスーツをハンガーにかけると、父さんも椅子に座る。
「父さんの夕飯今準備するよ。」
といっても薺が作ったのだけど。
「ねぇ、庸介!」
「え?」
「ごめん・・・」
「え? なんで?」
「だから、その・・・食べちゃった。」
「あ」
薺が、先程まで食べていた皿を僕に見せる。と、もう生姜焼きは残っていなかった。
どうやら先程とっておいた皿の分が父さんの分だったらしい。
というわけで、父さんの夕飯は当初の予定通りカップ麺となるのだった。

◆

朝、いつものように起きて洗面所で歯を磨いていると、居間の方から素っ頓狂な父さんの声が聞こえてきた。
「な、なんだこりゃぁ!?」
僕も、歯ブラシを口にくわえたまま、居間に行く。
居間ではスーツを着て会社に行く準備をしていた父さんが窓の外を眺めていた。
「んー、どうしたの、父さん。」
僕も、父さんと同じように窓の外を眺めてみる。すると、そこには信じられない光景が広がっていた。
少なくとも去年の冬、大雪の日の朝より衝撃的な景色だった。
「え・・・ちょっと、なんだこれ」
なんと、家の前の道路に物凄く大きな車が何台も停車していたのだ。
しかも、その大きな車というのはどこからどうみても自衛隊の装甲車にしか見えない。
そして突然、玄関のチャイムが2回鳴る。

ピンポーン、ピンポーン

「あ、はーい。」
父さんが玄関の方へ行くので、僕もその後に続く。
そして、玄関のドアを開けると同時に、これまたどう見ても自衛隊の隊員にしか見えない
カーキ色の作業服に身を包んだ男が2人、玄関に入ってきた。
「失礼します!」
そのうちの1人が、かなり大きい声で挨拶してきた。朝だというのに、物凄い気合の入り方だ。
「は、はぁ・・・どちら様で?」
「私達は×××陸上自衛隊の者です! 朝早くから申し訳ありません。」
男の口から出てきた自衛隊の名前からすると、隣町の基地の自衛隊員だろう。
「はぁ。何の、用ですか?」
「少しお知らせがありまして、隊のメンバーでこうして周辺の民家を回っているのです。」
「お知らせ?」
「ええ。今日の昼から、この街で訓練を行います。」
「訓練ですか、それは大変ですね。」
「最近は海外でテロが多くなってきたこともあり、我々もこうした訓練が増えているんですよ。
訓練では、模擬戦用の火薬も使用しますので騒音などで迷惑されるかと思いますが、ご協力お願いします!」
「はい、ご苦労様です。」
「では、失礼します!」
2人の男は、深く頭を下げると忙しそうに出て行った。恐らく隣の家に行ったのだろう。
隣から、『失礼します!』という先程の声が聞こえてきた。
「今までにもこんなことあったの? 街で訓練とか」
「さぁ。俺も長年ここに住んでるが、一度もなかったけどなぁ・・・。」
「ふーん。」
まぁ、最近は物騒な事件も多い。近年では日本国内でのテロ発生確率もかなり高くなっているようだ。
こうした街中での訓練なども重要なのだろう。

「おーい、壱畝ー!!」
それから学校に行くため、登校していると晃に後ろから声をかけられた。
「お、晃。おはよう。今日はめずらしく早いじゃないか。」
僕がそう言うと、晃は眠そうに目を擦りながら不満そうな顔をした。
「ああ全くだ、俺がこんな時間に登校なんてな。それもこれも朝から変な奴が家に来て俺を叩き起こしたからだ。」
恐らく、というか絶対、自衛隊の人の事だろう。
この街に住んでいる以上、免れることのできないイベントということなのだ。
「しっかし、物騒だよなぁ・・・訓練っていってもやり過ぎじゃねぇのこれ。」
晃がそう思うのも当然だった。登校するために道を歩いていると、至る所に自衛隊の車両が止まっている。
その車両の中には戦車も含まれていたりする。街中で戦争の訓練でもする気なのだろうか?
 いや、テロ対策なら実際それと同じくらいの事はするのだろう。
装甲車にしても、一台に1つは必ず機銃が装備されている。
まぁ、いずれにも実弾が装填されていることはないと思うが、
普段見慣れないものを目の前に物騒だと思わない方がおかしい。
「しっかし、すげぇよなぁ。」
「え? 何が?」
「かっこいいじゃん、戦車とか。」
「あ、あぁ。そうだね。」
戦車なんてテレビのニュースで見るか、プラ模型で物凄く小さい物を作った事くらいしかなくて、
実物なんてもちろん見たことが無かった。実際に間近で見てみると、
その重厚感や人を傷つけるための兵器としての圧迫感を感じた。
と、突然、晃が気になることを言った。
「なんでこの街なんだろうな?」
「え?」
「いや、だってさ。この自衛隊、全部隣町の奴らだろ? この街に自衛隊の基地なんてないし。」
「あ、そういえばそうだなぁ」
訓練くらいなら、自分の街でやってもいいんじゃないのだろうか?
それともこの街でなくてはいけない何か条件のようなものがあるのだろうか?
考えられるとしたら・・・
「この街って海あるじゃん。他国からの侵略を想定しての訓練なら、この街がいいんじゃない? 
街の規模も結構大きいし。」
「そっか、まぁそれもそうか。」
「それよりほら、早く行こう。今日は少し遅れてる。」
「げぇ、これで遅れてるというのかお前は。」
「晃はもう少し急いだ方がいいよ。もう何回遅刻したんだよ。」
「うーん、今更頑張ってもな・・・。」
「何言ってんだ。就職できないぞ?」

今日は朝から色々おかしな事が続くが、学校でもそれは変わらなかった。
「おはよう。」
「おっす。」
「お、庸介。おはよー。晃もおはよ。」
教室に入ると、既に薺が来ていた。当然今朝は薺の所にも自衛隊は来たはずだ。
「どう、今朝はゆっくり眠れた?」
「あんた、わかってて聞いてるでしょ」
「あはは。ま、僕はいつも起きてる時間だから別によかったけど。」
「それにしても、訓練だけであそこまで挨拶回りしなくてもいいのになぁ。」
「いきなりやって怪我人出ても困るでしょ。晃みたいにのろまな奴が街歩いてると、戦車でせんべいにされるわよ。」
「な、なんだとーっ!!」
その後、少し遅れて柳原さんもやってくる。
「あ、沙耶香、おはよー。」
いつもなら、軽く挨拶を交わして普通の世間話に華を咲かせるところだが、今日はそうではなかった。
「うん、おはよう。」
そう言った柳原さんの顔に笑顔はあったものの、どこか元気がなかった。
そして僕達の話にも加わらず、そのまま自分の席へと歩いていった。
「なんだ、こんな時期に風邪か?」
「えー、こんな時期に風邪はないでしょ、ってか晃って風邪ひかないでしょ。」
「壱畝、お前まで・・・」
「でも、夏バテってのはあるかもね、沙耶香食細そうだし。いや・・・あの日かも・・・」
「はい女の子がそんな事言わない。」
たまたま後ろを通りかかったクラスメイトの女子が会話を聞いていたのだろう、
苦笑しながら薺の頭に軽くチョップを入れて自分の席に戻っていった。
確かに、食は細そうだ。体格を見ても、痩せ過ぎではないかと思うほどだ。
その後も、しばらく3人でああだこうだと、色々話ているうちにやがてホームルームの時間となり、
教室に担任の教師が入ってくる。
「起立、礼。」
委員長の号令に合わせ、礼をした後、再び席に座る。いつもならこの次に出席を取るはずだったのだが、
今日は違った。
「よかったなー、晃。」
それが担任の第一声だった。何の前振りもなく、いきなりのことだった。
クラスの全員がもちろんのこと、晃本人までもが面食らっていた。
「え、俺? 俺か?」
「晃、あんたまたなんかやったんでしょ」
やはり晃のイメージではそうなるか。僕も丁度そんな事を思っていたのだ。
しかし―――
「えー、今日の学校は休校だ。」
担任のその言葉に、クラス中が喧騒に包まれる。
この知らせに疑問を抱く者も居れば、昼からどこかへ遊びに行こうと計画を立てる者達も居る。
「おいおい、まじで?」
「っつかやったな! おい、これからどっか行こうぜ!」
「こらー、お前ら静かにしろ。まぁ休みになったのは自衛隊のお陰だ。感謝しとけ。」
「自衛隊?」
「そうだ。今朝、お前達の家にも来ただろう。訓練をするそうだが・・・
その際、この学校のグラウンドも色々使用されるそうだからな。邪魔にならないように今日は休校だ。」
「おいおいおい、どんな規模の訓練だよ? 本当にどっかの国と戦争でもするんじゃないんだろうな?」
「というわけで解散だ解散! あ、それと今日は家から出るなよ、外は装甲車や戦車も居るしな。じゃ、号令。」
「起立、礼。」
委員長の号令で、各自それぞれ、荷物を持って帰宅を始める。
「おい、壱畝。」
「え、なんだ?」
「ちょうどいいじゃん。今週中にどっか遊びに行く予定だったんだし。今日にしないか?」
先程家から出るなと言われたばかりなのだが・・・
しかし、周囲のクラスメイト達も仲の良いもの同士遊びに行く計画を立てている。
どこか店で暇を潰すくらいならそれでもいいだろうと思い、僕は首を縦に振る。
「お、いいね。薺は、どうする?」
「私もOKよ。どこ行く?」
「んー、ま、それは後から決めることにして・・・」
もう1人、柳原さんの方を見てみる。と、彼女はまだ自分の席に座ったままだった。
まるでこの喧騒に取り残されたみたいに。
「ねぇ、柳原さん」
「・・・。」
「おーい、柳原さん?」
「・・・え、あ、何?」
2回目でようやく僕の声に気づいて顔を上げる。本当に調子でも悪いのかな?
「僕達これから遊びに行くけど、どうする? 調子悪そうだけど・・・」
「ううん、大丈夫。ちょっとぼぅっとしていただけだから。私も行くわ。」
「じゃ、決まりね。こんな時間だし、全員一度家に帰って服着替えましょ。」
「おう、そうだな。それから街で昼飯食うか。」
「じゃ、帰ろう。」

◆

朝、ホームルームが終わり、生徒が下校していくのと同時に入れ替わるようにして
自衛隊の連中は学園の敷地内に入ってきた。何台もの装甲車がグラウンドに駐車され、
数人の隊員がわずかな時間でテントを組み上げて学園は既にどこかの基地のようにも見える。
「・・・ふぅ。」
教師、大神田 沙紀はその様子を図書室の窓から眺めていた。
「や、何かすごく不機嫌そうだねぇ。」
その大神田の後ろには、黒いコートの男が立っていた。
男はプラスティック棒の先についている飴玉を舐めながら満面の笑みで彼女に話しかける。
その表情を見ていると、お菓子を食べてとてもご機嫌な子供のようにも見えなくはない。
「なんだ、居たの、あんた。」
「そりゃぁこいつらを指揮してるのは僕だしねぇ。」
「で、何か用?」
「君も知ってるだろ・・・?」
「テロ屋対策の大演習?」
「ああ表向きは、ね。
「・・・。」
「沙耶香は、今この学校に?」
「残念。今日は壱畝達と街に遊びに行ってるんじゃないの?」
「壱畝?」
「私の生徒だよ。あんたは知らないと思うけど・・・。柳原の唯一の友達だよ。ま、瀬川や飛揚も居るだろうけどね。」
「あぁ、あの子がそうかな? 以前街で一緒に歩いているのを見かけたことがあるが・・・
参ったなぁ、部外者と一緒じゃいくら自衛隊使っても接触しにくいなぁ。」
「ったく、あんたいつから自衛隊に入ったわけ? っつーか、なんで今突然動くのよ。」
「ま、僕だけの都合じゃないんでね。もっと上のお方からのご指示なんだから仕方ないだろ。」
男はやれやれと、肩を竦めて飴を噛んだ。
「上、ねぇ・・・。何考えてんのよあんたの上司は。戦争でも始める気?」
「しかし、今回の上の判断は正しいさ。アレを野放しにしているとその内取り返しのつかない事になる。」
「ふん、何が正しい判断よ。元々作ったのは―――私達じゃない。私達の都合で作って・・・
それをまた私達の都合で消すなんて。」
「消す? 勘違いしてもらっちゃ困るよ。少しだけ自由を奪うだけさ。」
「同じでしょ。自由を奪えば肉体的にはそうじゃないけど、個性や存在は消失したようなものじゃない。
・・・私達は、最低ね。」
大神田のその言葉に、男は苦虫を噛み潰したような顔で小さく呟いた。
「個性・・・か。それがあの子にあれば、の話だがな。」

◆

午前10時。自衛隊の車両で埋め尽くされた道路に多少の違和感はあったが、
街はいつも通りに機能し始めようとしていた。交差点を流れる大量の人、そして道路には車。
喫茶店やレストランも店を開き始め、賑やかさが増していく。そしてそんな賑やかな一部に、
僕達4人も含まれていた。
「おーっし、全員揃ったな。」
「で、まず何する? まだ10時よ?」
少し早く集まりすぎたのではないのかとも思ったが、時間は沢山あった方がいい。
「昼までゲーセンで時間潰す? 確か9時半には開いてたと思うし。」
「よし、じゃ行くか。ん? おーい、柳原、どうした?」
「え? あぁ別に。それじゃ行きましょう。」


朝なのであまり人は居ないと思ったが、その予想は大きく外れた。
今日はこの街にある学校全部が休みなのだろう。ゲームセンターには、
学校帰りと思われる学生服姿のグループが結構居た。しかも制服も色々な種類が確認できる。
「うっひゃー、昼みたいに混んでるなぁ」
「ま、突然の休みだからねぇ。で、どうする?」
「そうだなぁ・・・やっぱりゲーセンって言えばアレしかないだろ?」
「うん、アレだな。」
「薺、アレって?」
「ん? あぁこいつ等ちょっと趣味が他と変わってるからねぇ。」
普通、僕達の年代でゲームセンターといえば、格闘モノやシューティングのアーケードゲームだが、
僕達は違った。それは・・・クレーンゲームだ。
地味ではあるが、これが異常なほどに白熱したりする。
「ふ、この前は負けたが、今日は負けねぇぞ壱畝ぇ」
「ま、頑張ってくれよ。僕の腕は世界プロ級だからね。」
「言ったな! じゃぁ今回のテーマは、これだぁ!」
クレーンゲームの台は5台ほどある。その中の1台を晃が指差す。
その台の中の景品には、様々な人形が入っていた。が、その中でも1つ、とても気になる物を見つけた。
「ん・・・? ん!? あぁ!! こ、これは!!」
「な、何、どうしたの庸介?」
「み、見てみろ薺! あれ、あれだよ!!」
そう、景品である様々な種類のぬいぐるみの中に、それはあった。
「え・・・な、なんでこんな人形ここにあんのよ・・・」
そう、それはあの某クイズ番組でも有名なひ○し君人形だった!
しかもスーパーではなくノーマルなところが泣かせてくれる。
「どうだ、ターゲットとしては十分すぎるほどだろ?」
しかし、どう見ても目当てのひ○し君人形は一発では取れない位置にある。
上に2、3個、他の人形が重なっている。
「こりゃ先行の奴が切り崩していくいかねぇな。」
「なら僕から行こうじゃないか。」
「お、余裕だな、お前。」
何も要らないからといって無駄に切り崩す必要もない。他の人形もゲットすればいいのだ。
「さーて、沙耶香、私達はどうする?」
「どうするって言っても・・・私、ゲームは下手。」
「だろうねぇ、見てるとわかるよ。」
薺が周囲をキョロキョロと見回し、休憩所を見つけるとそこを指差した。
「じゃ、私達はあそこで休んでるわ。」
「あ、そう? なんか悪いな・・・。それじゃ、昼から皆で映画にでも行こうか。」
「あ、いいわね、それ。丁度いいわ。」
こうして僕達はそれぞれ二組に別れた。

◆

「ふぅ・・・全く、アイツらも子供よねぇ。この歳になってゲーセンって。」
「でも、おもしろい所じゃない。」
「そう?」
「こういうとこも、初めてだから。」
「まぁ見てるとわかるわ・・・。」
目の前の薺は、椅子に座って苦笑しながら頬杖をつく。
私も休憩所に置いてあった薺の正面の椅子に座る。
「何か飲む? おごるわよ。」
薺は複数の自動販売機の方を親指で示しながら言った。
そういえば朝から何も飲んでいなかったので、今になって喉が渇いていることに気付く。
「あ、でもおごってもらうのは・・・」
「はいはい、固い事言いっこなし!」
「あ・・・それじゃお茶、もらおうかな。」
「了解。」
薺が2本の緑茶を買ってその内の1本を渡してくれる。
「ありがとう。」
「いえいえ。」
缶のプルトップを引いて、お茶を一口飲む。とてもよく冷えていて、
喉は一気に潤った。
「・・・ふぅ。」
「ね、何かあったの?」
「え?」
突然、薺にそう言われて驚いた。確かに、あった。朝から色々と。
でも、薺やみんなには言ってないはずなのに。内心ドキドキしながら私は聞いてみる。
「なんで?」
「んー、いや、朝からちょっと様子が変だったからさ。」
「・・・変? そう、見えるの?」
「だって、話しかけても反応遅いしさ。どこかこう、上の空って感じ?」
やはり、自分でも気付かない内に大分参っているようだ。しかし、参るのも当然だった。
朝から、この街を自衛隊が訓練と言って埋め尽くしているのだから。
学校でもこの突然の訓練に不振を抱く者も多かったが、私には心当たりがあった。
自衛隊がこの街にやって来たのは訓練が目的ではない。この私なのだ。
「相談、乗るよ?」
「え?」
「相談。何か困ったことがあったらいつでも相談に乗るからさ。
辛いことあるんなら少しは頼りなさいって。」
薺のその言葉が、とても嬉しかった。
こんな事を言われたのは、生まれて初めてかもしれない。本当に、私はいい友達を持った。
でも・・・私の悩みは薺達に相談できるものでもない。
「うん、ありがとう。でも・・・今は、ごめん。」
「そうか。ま、それじゃ仕方ないか。」
壱畝君達の方を見てみると、盛り上がっているみたいだった。
「うぉ! いいぞ、晃! そのまま行け、行け! ・・・だぁぁ! くそっ!」
「だぁぁっ、ダメだ! やっぱこのクマだよ! このハチミツ馬鹿が邪魔なんだ!」
「むぅ・・・なら僕がなんとかしてみるか」
「おぉ、壱畝、頼りにしてるぜっ!!」
その光景を見ていると私は自分でも気付かないうちに笑っていた。
いつもそうだ。壱畝君の笑顔を見ていると、私まで笑いたくなってくる。
「ねぇ、沙耶香・・・」
「ん? 何かな、薺?」
「沙耶香は、誰か好きな人とか、居る? その、例えば庸介とか・・・」
「・・・」
何故か頬を染めた薺にそう聞かれた私は、素直に首を縦に触れなかった。
だって、私は生まれてから一度も恋をしたことがない。誰かを好きになったことなんて、ない。
誰かを好きになってはいけないのだ。だから、好きということがどういうことかが、よくわからない。
でも・・・今のこの暖かい気持ちが、そうだというならば、私は―――
「よくわからないけど・・・好き、なのかな。」
「そ、そうなんだ! なら、頑張らないと! ね!」
頑張る・・・薺のその言葉が、とても空しく聞こえたのは何故だろうか。
わかっているからだろうか。私ではどんなに頑張っても、無理だということ。

「よっしゃぁぁぁ! ゲット! ゲットだぜ、ひ○し君人形ぉおお!!」
「言っとくけど、それ取れたの僕のお陰だからな。」
「へっ、何言ってんだ、俺の腕が良かったからに決まってんだろ?」
「全く、すぐ調子に乗るんだからなぁ。」

「でも、わかるな。沙耶香が庸介好きになったの。」
薺が、壱畝君達の方を眺めながらぽつりと呟いた。
「え?」
「優しいもんね、庸介。」
そう言う薺の顔は笑っていたものの、とても切なかった。人を好きになるということは、わからない。
だが、直感だろうか。薺も、壱畝君のこと好きなんだということがわかった。
「・・・薺こそ。頑張れ。」
「へ?」

「うぉぉ! なんだよ壱畝その人形!!」
「ふっ、スーパーひ○し君人形。」
「え、えぇ!? ちょ、なんで!? えぇ!!?」
「下に埋まってた。というわけで、僕の勝ちだね。」
「ぐぅ、完敗だぜ・・・」

◆

ゲームセンターで時間を潰し、昼近くになったところで僕達は店を出た。
「あんた達いくら使ったの?」
「え? 僕? えーっと・・・2700円、かな。」
袋には結構なぬいぐるみが詰まっていた。
「晃は?」
「俺は、3600円だ。」
「ふっ、こういうところで僕と晃の腕の差がわかるよね。」
「な、何をぅ!」
しかし、こんなにぬいぐるみがあっても、僕には使い道なんてない。
部屋に飾るといっても、そんなお洒落な部屋でもない。
「薺、柳原さん、ぬいぐるみ居る?」
「え?」
「ぬいぐるみ・・・」
薺と柳原さんがぬいぐるみの入った袋を覗き込む。と、薺の顔がみるみるうちに苦笑へと変わっていく。
「あ、あんたねぇ、取ってくる人形少しは選びなさいよ。もっとこう、可愛いのとか。」
「うーん、やっぱり、そう思う?」
袋の中に入っている人形を見れば、何やら緑や青色で手足が何本も生えた奇妙な生物が、
こちらを見ていやらしく笑っていた。この表情を見れば誰でも一歩引くだろう。
しかし、柳原さんは違った。
「・・・可愛い」
「「「・・・え?」」」
薺や晃はもちろんのこと、僕も驚いた。
柳原さんは、うっとりとした表情で、ぬいぐるみを1つ手に取った。
「ま、まぁ、それはいいとして。どこで飯食う? 映画行く前に昼飯だろ、やっぱり。」
そういえば、もうすぐ昼だったことに気付く。ゲームセンターで白熱していると、
自分が空腹であることも忘れてしまう。
「定番ならここで手軽にファーストフード系だけど、たまには何か違ったものが食べたいよねぇ」
「例えば?」
「うーん、例えばって言ってもねぇ」
「あ、俺焼き肉がいいな、肉食おうぜ、肉!」
いつもの晃の馬鹿回答に、薺が突っ込む。
「1人で行ってろ!」
そう言って、晃の背中を押した時だった。
「うぉっと!」
晃がバランスを崩し、近くを歩いていた他の人達の中へ単身突っ込んでいった。
いつもならここで終わるはずだった。が、今回は運が悪かったとしかいいようがない。
「っ痛!!」
「どわぁっ!」
それは、5、6人の高校生グループだった。制服を見ると、僕達とは違う学校だということが分かったが、
問題はそこではなかった。
「痛って・・・あ、スンマセン、大丈夫っすか?」
ぶつかって倒れてしまった相手の高校生を起こそうと、晃が手を差し出した時だった。
「痛ってーな、何すんだよっ!」
相手の高校生が、突然晃に殴りかかった。相手の拳は晃の頬にクリーンヒットし、
晃は道端に並べてあった自転車の方へ吹っ飛んだ。
「晃! お前、大丈夫か?」
晃に駆け寄ると、痛そうな顔をしていたが目立った怪我は無さそうだった。
「あ、てて・・・ま、大丈夫だ。」
晃が無事だということが分かると、急に相手に対して怒りが込み上げてきた。
確かに勝手に向こうへ突っ込んで行った晃が悪かったかもしれない。でも、晃は謝ったじゃないか。
そう思った時には、既に体は動いていた。
「おい、お前ら・・・晃は謝ったのに、なんで殴ったんだよっ!」
「お、おい、やめとけ壱畝!」
「あー、なんだこいつ?」
「めんどくせぇなー。ほら、どけ邪魔だ、邪魔。」
「・・・っ」
「ってかさ、うざいってお前ら!」
気付いた時には遅かった。僕の視界が揺れて、自分の体が少しだけ飛んだのがわかる。
道路に倒れこんでから、自分の顔に痛みが走り、自分が殴られたことに気付く。
「痛ってぇー」
こんなことなら、小さい頃に格闘技の一つでも習っていればよかったとが後悔が押し寄せる。
そして、そんな僕を見て、相手の高校生達はゲラゲラと笑っている。それを見て、再び怒りが湧き上がってくる。
なんで、晃が、僕が、こんな下らない奴ら相手に殴られなければならないのだろうか。
「あ、あいつら・・・酷い。大丈夫? 庸介?」
「なんとか・・・」
「もう大人しくしとけ。向こうの方が人数多いんだ。相手にしなきゃいいんだよ。」
「あららー、もう終わりかよ。弱い癖に俺らに喧嘩売んなっての。行こうぜ。」
高校生達がその場を去ろうとした時だった。
「ちょちょっと沙耶香!? あんた何するつもりって、あ、ちょっと待ちなさいって!」
何があったのかと、僕も体を起こす。
すると、柳原さんは、僕達の方を振り返って一言、呟くように言った。
「大丈夫。すぐに済むから、待ってて。」
「!?」
その時の柳原さんの顔は、柳原さんであってそうではなかった。
目は死人のように冷めた、しかし鋭い目で、口元だけが不気味に歪んでいる。その表情に背筋が凍る。
本能で危険を察知するというのは、こんな感覚なのだろうか?
それよりも彼女が放った言葉だ。すぐに済む? 何の事だろうか。そう考えているうちに、
柳原さんが先程の高校生グループに向かって歩き出した。
そんな柳原さんを見て、僕の体は固まったように動かなかった。晃も薺も、同じように動けなかった。
それだけ、衝撃的だったということだ。
と、柳原さんが歩き出したのとほぼ同時だっただろうか。街に、銃声のような乾いた音が一回鳴り響く。
いつものように喧騒に包まれていた街だったが、そんな喧騒など全く関係なく、
その乾いた銃声のような音だけが僕の耳に入ってきた。
「な、なんだ!?」
道路に倒れこんでいた僕も、驚いて立ち上がった。
「お、おい、壱畝! あれ!!」
晃が驚いた顔で柳原さんの方を指差す。
僕も釣られてその方向へ目線をやると、正確には柳原さんを指差してはいなかった。
それは、柳原さんと、2、3mの間隔を開けて対峙する黒いコートを着た男だった。
この真夏の暑い中で、黒いコートを着ていることにとても違和感があったが、
その男が手に持っている物にはもっと違和感を感じた。
それは、太陽の光を反射し、鉄独特の重量感のある黒光りした物―――銃だった。
先ほどの銃声のようなものの原因が、あの男だというのだろうか?歩き出していた柳原さんは、
その場に足を止めてその男を睨んでいた。
「だ、誰だ? 柳原の知り合いか?」
「私に聞かれても知らないわよ!」
知り合い・・・そう言うには少し、いやかなり穏やかな雰囲気ではないことは確かだ。
柳原さんと謎の男はしばらく対峙したままであったが、やがて先に男の方から動いた。
男は、ゆっくりと持っていた銃の先を柳原さんへと向けた。
僕達も柳原さんの側まで行く。と、先程見た恐ろしい表情は消え去って、いつもの柳原さんに戻っていた。
が、しかしその表情は依然として硬かった。
「おやおや、これはこれは。君のお友達、ですか。」
男は不気味に笑いながら僕達を見る。
「そうよ。私の大事な友達。だから、その物騒な物をしまって。」
柳原さんの言う物騒な物、とはやはり銃の事だろうか。
近くで見ると、ますます本物に見えてくる。(勿論本物は見たことないが。)
「ふむ・・・」
男は何か納得したように、その手に持っていた銃をコートの内ポケットに仕舞い込んだ。
そして、代わりに黒くて四角い何かを取り出した。それは何の変哲も無いチョコレートだった。
突然、場違いな物が出てきた事に違和感を覚えながら男の方を見ていると、ふいに男と目が合った。
と、男は穏やかに笑ってこう言った。
「いや、失敬。私は甘い物に目が無くてねぇ。」
先程まで銃を持っていたとは考えられないほど、平和そうな人だ。嬉しそうに微笑みながら、
そのチョコレートの包みを剥がして口に頬張る。
「うん、うまい。」
「それより、あなたが突然、私に何の用?」
「んー、そう聞かれると困ったなぁ・・・何というか・・・」
柳原さんの問いに男はしばらく考えているようだったが、
口の中のチョコレートを食べ終わると1人肯きながらこう言った。
「君に消えてもらいに来た―――」
あまりにも日常とかけ離れた台詞に、その場に居た全員が凍りつく。が、それも一瞬だ。
「って言ったらどうする? やっぱ驚くよねぇ、あはは」
男だけがケラケラと陽気に笑う。冗談にしては、少し笑えない冗談だ。
唯一、目の前の男だけが終始笑い声をあげながら笑っていた。
そしてそんな男の態度が気に入らなかったのだろう、薺が怒りも露にして叫んだ。
「あんた・・・それでふざけてるつもりっ!?」
今にも殴りかかりそうだ。僕は薺の肩に手を置いて、彼女を止める。
「あぁ、ごめんごめん、怒ったなら謝るよ。」
そう言いながら男は別のポケットからキャラメルを取り出した。そしてそれを薺の方へ向ける。
そして呑気にもこんな事を言う。
「食べる?」
「―――っ!!」
男にすれば悪気はないのだろうけど、その行動が薺の怒りを増幅させる。
火に油を注ぐという言葉を知らないのだろうか、この男は。
あまりにもその男の雰囲気と人間性にギャップのせいか、
もしかしたら晃よりも強敵かもしれないなと、僕は内心で苦笑する。
「ありゃりゃ・・・完璧に嫌われちゃったなぁ。」
いつまでも自分の手の中にあるキャラメルを、仕方なく自分で食べる男。またしも1人笑顔で肯く。
「うん、うまいっ。」
何やらとても悪い人には見えないのだが・・・
もしかしたら、先程の銃もモデルガンか何かだろうか?あまりにも本物ぽかったけど、
よく考えればここは日本で、銃刀法違反という法律もあるわけだし。しかし、男は少し表情を硬くしてこう言った。
「でも・・・君をこのままこうして放っておくことはできないんだよ、沙耶香。それは本当だ。」
「やっぱり、そういうこと・・・。」
「もう、君もわかっているだろう。さっきの行動も、明らかに感情が暴走していたdふぁろう。理解・・・できるね?」
その男の言葉に、柳原さんは肯定も否定もせず、ただ目を男からそらす。もしかすると、
それが彼女の肯定だったのかもしれない。男は1回頷くと、
「なら、ご同行願えますかな?」
男はそう言って、柳原さんの方へ手を差し伸べた。
放っておくことはできない? ご同行?
話の見えない僕は何が何かわからない。でも、柳原さんがこの男に連れて行かれそうになっているのは確かだ。
ここは逃げるべきなのか? でも、この男が悪い人と決まったわけでもない。僕がそんな事を悩んでいるうちに、
薺が一歩前へ出ていた。
「お断りします!」
「え?」
突然の薺の返答に男を含め、その場に居た全員が驚く。柳原さんも例外じゃなかった。
「いや、しかしねぇ。私も仕事上の都合、この子を捕獲しなきゃお給料出なかったりするんだよねぇ。」
「捕獲・・・アンタ、沙耶香を何だと思ってるの!? 動物か何かと勘違いしてるんじゃない!?」
確かに、先程の男の言い方には僕も何か引っかかった。先程の薺の言葉に、男は軽く鼻で笑った。
「動物、ねぇ。そんな生易しい物じゃないさ。」
「は? 何意味のわかんないこと―――」
「沙耶香はね・・・人間じゃないんだ。」
男は少しその表情を硬くして言った。薺も流石にこれには言い返す言葉も思いつかなかったらしい。
僕だって、耳を疑った。人間じゃ、ない? じゃぁなんだというのだ。ここに居る柳原 沙耶香という少女は。
「いや正確に言うと、限りなく人間に近い”できそこない”さ。」
「おい、コラおっさん、笑えない冗談も大概にしとけよ!」
「いいの、瀬川君。本当の、事だから・・・」
「はぁっ!?」
柳原さんまでもが、それを認めた。一体、どういうことなのだろうか。
「柳原さん、それって・・・」
柳原さんに話の詳細を聞こうとしたが、その前に男の方から喋りだした。
「僕達が所属する組織はね十数年前からあるプロジェクトを立ち上げた。
それは、世界を揺るがすほどの大プロジェクトだった。」
「プロジェクト?」
「そう。プロジェクトの詳細は言えないけど、簡単に言うと兵器を作り出すプロジェクトだったんだ。
そして、そのプロジェクトが行き着いた先が・・・沙耶香というわけだ。」
「でも・・・柳原さんは普通の人間じゃないか!」
「普通? ははは、君は知らないだけだよ、この子の本当の力をね。この子は普通の人間じゃない。
僕達が作り出した、ね。当時としては最新の技術を駆使して、人工的に造られたんだ。」
「そんな・・・っ!」
「結局、結果は失敗。”できそこない”として処分されるはずだったんだけどねぇ。」
既に、男は、その言葉から柳原さんを物のような存在でしか見ていないことが分かる。
「命令に忠実でない”できそこない”は、処分されることを拒み、普通の生活を送るために逃げ出した・・・
とまぁこういうわけだよ。わかってもらえたかな?」
「そんなこと・・・」
「うっさい、死ねハゲ!」
「おっと」
男の不意を突いて薺の拳が炸裂するが、晃のようには行かず、男はそれを軽く受け止める。
「沙耶香は・・・沙耶香は、普通の人間よ! 普通の女の子よっ! それを何かの物みたいにっ」
薺は、必死だった。当然だ。僕だって、柳原さんが兵器だなんて、信じない。信じられない・・・。でも・・・。
そんな事を考えていると、柳原さんが突然叫んだ。
「みんな・・・逃げて!!」
柳原さんは、ビルの屋上を見上げていた。そこには、ライフルを構える自衛隊らしき隊員の姿が見えた。
男もそれに気付き、叫ぶ。
「やめろ、撃つなよ!」
その言葉に、隊員はライフルのスコープから顔を逸らす。
と、いうことはこの自衛隊は男が動かしているとでもいうのだろうか?
「行くわよ、晃!」
「お、おう!」
薺と晃が走り出す。いきなりの事で戸惑ったが、柳原さんに腕を引っ張られて僕も走り出す。
「壱畝君、こっち!」
こうして僕達は走り出した。
「やれやれ全く、やっぱりこういう役、僕には向いてないんだけどなぁ・・・」

◆

2人はどれくらい走っただろうか。もうどちらも息が切れて、今にも酸欠で倒れそうだった。
「はぁっ、はぁっ・・・」
薺が後ろを確認すると、既にあの男も自衛隊員の姿も確認できない。
「無事に、逃げ切れたか・・・。」
「ねぇ、晃、庸介と沙耶香は!?」
「さぁ、俺にもわからない。逃げるのに必死だったからな。」
晃もかなり疲労していた。
よく、ドラマなどで銃を向けられるシーンがあるが、
実際にライフル銃を向けられた時のショックは予想を上回るものだ。
何せ、一瞬で命を奪える物が自分を狙っているのだから。
「ったく、あのオッサン冗談キツいぜ。」
「それより、どうやって沙耶香達と合流する?」
「ど、どうするつってもなぁ・・・」
商店街のど真ん中、人混みの中で晃は周囲を確認する。まだ自分達の存在は見つかっていないようだが、
近くには自衛隊の車両もまだ多く確認できる。
「とりあえず、無事に逃げ切ってると思うしかないな。」
「沙耶香や庸介を見捨てるつもり!?」
「馬鹿言え、そうじゃねぇよ。俺達だってヘタに動いて見つかったら何されるかわからねぇんだぞ?」
「・・・見損なったわ、晃!」
走り出そうとする薺の腕を掴む晃。
「ちょっと、やめてよ! 離して!! 沙耶香、狙われてるのに・・・!」
「離せばお前また走り出すだろ!」
「なんでっ、なんでアンタはそんなに冷静なのよっ!!」
薺の叫びに、通りすがりの人が何人か2人の方を振り返るが、再び何ともなかったように歩き出す。
「俺だって、アイツらのことが心配だ。でも、今お前を離せば俺、一生後悔するような気がするから・・・! 
好きなんだよ、お前の事が! だから・・・この手は、離せない。」
その突然の言葉に、流石の薺も、体の力を抜いた。
「ちょっ・・・ドサクサに紛れて何を冗談・・・」
「俺は本気だ。」
晃の言葉に、悔しそうに顔を歪めるも静かに肯く薺。
「・・・わかったわよ。」

◆

僕と柳原さんは、ビルとビルの間の細い裏路地を全速力で走っていた。
たまに、残飯を漁っている野良猫などを踏みつけそうになりながらも、
後ろを追ってくる男達からなんとか逃げ切っていた。
「はっ、はっ・・・く、苦しい・・・!」
腕の時計を見ればまだ5分も経っていないのに、息は上がりきっていた。
全力で走っていると、こんなにも苦しいものなのかと初めて思い知る。
しかし、驚いたことに僕の前を走る柳原さんは同じペースを保ち続け、平然な顔をして走っていた。
そればかりか、僕の方を振り返りながら走っているほどだ。
「・・・大丈夫?」
「ちょ、ちょっと苦しいかな・・・」
先程の男の言葉が頭の中を過ぎる。

『人工的に造られたんだ。』

そんな馬鹿な事があってたまるものかと思いたいが、目の前の柳原さんを見ていると納得せざるを得ない。
先程から全く疲れを見せない柳原さん。そういえば一番最初に出会った時に、
他人の記憶が消えたりと不思議な事が起こったこととやはり何か関係あるのだろうか?
色々な事を考えている内に、何時の間にか柳原さんの足は止まっていた。
「もう、大丈夫・・・。」
その言葉を信じなかったわけではないが、後ろを振り返ってみる。確かにもう追いかけてきていないようだ。
「はぁ、はぁ・・・」
しばらくすると、荒かった息も段々と落ち着いてくる。走っているのに必死で周囲をよく見てなかったせいか、
いつのまにか知らない場所に来ていた。
何やらホテルやレストランの裏路地っぽいところだろう。日の光が遮られ、薄暗くて湿気の多い場所だった。
「・・・。」
そしてやはり、柳原さんも疲れたのだろうか、俯いて黙ったままだ。訪れる沈黙が、その場をとても重くさせる。
といってもあんな事を聞かされた後だ。何を喋ればいいか、わからない。
「あ、あのさ・・・」
とりあえず、ここでこうしていても埒が明かない事は確かだ。
街へ出て、何時の間にかはぐれてしまった晃や薺と合流した方がいいだろう。
「とりあえず、みんなと合流しよう。」
そう言って、柳原さんの手を取ろうとした時だった。
「嫌っ、さわらないでっ!」
柳原さんは半ば叫びながら、差し出した僕の手を跳ね除けた。
「柳原、さん?」
「ご、ごめんなさい・・・。」
「・・・いや、いいよ。」
「結局・・・」
「?」
「結局私はどんなに頑張っても、人間になれない事、わかったから・・・」
「そ、そんなこと!」
「だって・・・壱畝君が殴られた時、あの男が止めてくれなきゃ私・・・あの人達を殺してた!」
その言葉に僕は凍りついた。まさか、柳原さんの口からそんな台詞が出てくるなんて思いもしなかったから。
「私はやっぱり兵器なの。感情のコントロールもできないできそこない・・・だから・・・」
「だから、なんだっていうんだよ。」
「え?」
「僕は、そんな事全然気にしない。多分、晃も薺も・・・だから、行こう。少なくとも、僕は今の柳原さんが好きだ。」
もう一度、柳原さんに手を差し伸べる。だが、その手が取られることはなかった。
柳原さんは、泣いていた。
「どうして・・・どうして壱畝君は、皆はそんなに私に優しくしてくれるの?」
「え・・・どうしてって・・・」
「あなたがそんなに優しくなければ、私もあなたや薺に出会う事なんてなかったのに!」
「柳原さん・・・」
「これ以上、一緒に居ると絶対皆にも迷惑をかけることになる。だから・・・私、行くね。」
「行くって、どこに?」
「あなたと出会ったこの数ヶ月間、本当に楽しかった、幸せだった・・・。」
「ちょ―――」
他にも言いたい事は色々とあった。が、それは柳原さんによって止められる。
しばし重なり合う唇と唇。
「ごめんなさい。そして、ありがとう―――」
その時、後頭部に電気のような軽い痛みが走ったかと思うと僕はその場に倒れこんだ。
意識はあるのに、体が動かない。声も、出せない。なんとかして首を動かすと、
僕に背を向ける柳原さんの姿が見えた。
彼女の去る足音だけが僕の耳に入ってくる。悔しかった。
今すぐにでも走り出し、彼女を止めたいのに。僕は無力にもこうして地に這いつくばるしかない。
「くそ・・・くそっ、動け・・・動いてくれ・・・」
僕は自分の無力さを、非力さを呪った。
「くそ・・・くそぉ!」

この日を境に柳原 沙耶香はその姿を僕達の前から消すことになる―――。
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