オリジナルノベル 約束

今は、夏だ。
冷房をつけていない部屋は、当然のように暑かった。
今は、昼だ。
カーテンで窓を塞いだ部屋は、当然のように薄暗かった。
部屋の壁には、カレンダーがある。
確認もしないので、当然、今が何日なのかわからなかった。
でも、そんなことはどうでもよくなったんだ、僕は。
僕は、薄暗い部屋でベッドに横になり、もう何日も同じ天井を見続けていた。

最終話

柳原さんが僕達の前から消えて、既に一週間ほどが経とうとしていた。
といっても正確には何日経ったのかは、わからない。
あの日から全ての事にやる気が起きない僕は、自分の部屋のベッドの上で寝続けている。
食事も、もう何日か前に軽く昼食をとっただけで今も当然空腹ではあったが、ベッドの上から動きたくなかった。
世間はもうすっかり夏休みに入ったのがせめてもの救いだろう。
といっても僕達は3年生で、夏休み恒例の補講授業は
ずっと休んだままだった。でも、もうよかった。
どうせ、僕は晃や薺と違って目指す目標や夢なんてないのだから。
あの日、僕はわかったんだ。僕がどれだけ無力か。
夢も目標も持たず、そして女の子1人守れない自分に嫌気がさしたんだ。
実際、僕が無力だったばかりに、彼女は僕達の前から姿を消したんだ。
今でも、目を瞑れば脳裏に過ぎる彼女の涙。もういい。
どんなに頑張っても、どれだけ努力しても、今の僕は変わらない。なら、楽に生きようじゃないか。
そう思ったら、とても楽になった。こうして、寝ているだけでいいんだ。
まるで、僕だけを置いて時間が止まったようだった。でも、時計の針は動き続けている。ずっと、ずっと。
そして、僕の知らない所で現実はずっと続いていた。

◆

「えー、つまり、この式は教科書の【2.3】にある公式から導き出されるわけだ。
ここで注意しなければならないのは―――」
沙耶香が居なくなって、1週間と2日が経とうとしていた。
あれから晃とは一言も言葉を交わしていなかった。それは、あの日の晃の言葉が原因だった・・・。
そして庸介も・・・。
あの日、私と晃がしばらく時間を置いて二人を探していて、庸介だけを見つけた。
庸介はレストランの裏路地に倒れていた。晃が庸介の顔を何回か叩くと、直ぐに目を覚ましたものの、
庸介は泣き出した。大声で。あんな庸介は、初めて見た。庸介の話によると、
沙耶香は私達の前から姿を消したらしい。もう、二度と私達に関わらないように、と。
沙耶香の席を見てみると、誰も座っていなかった。欠席しているから、というわけではないらしい。
ただの空席だ。
不思議なことに補講第一日目に私が学校に行くと、柳原 沙耶香という少女は
初めから存在しない事になっていたのだ。
クラスメイトの男子も、女子も、そして生徒も。晃と、私だけが彼女の事を知っている唯一の人間だった。
今思えば、私も最初、沙耶香のクラスメイトにして名前も知らなかった。
これこそが、彼女が兵器として持っている力なのだと、今になって気付いた。
そして、気付いた時には遅かったのだ。
私は、もう1つの空席を見つめる。こちらはただの空席ではなく、欠席している。
そう、幼馴染の壱畝 庸介の席である。あの日の事がよほどショックだったのだろう。
あの日以来、ずっと学校を休み続けている。
「・・・。」
今、私の親友はクラスに晃だけとなっていた。その晃も、今はつまらなそうに教師の話を聞いている。
「―――ぃ! おい、飛揚!」
「あ、は、はいっ!」
突然、教師に名前を呼ばれて我に返る。
「次の問題、解けるか?」
「はい。」
「じゃ、前の黒板に解いてくれ。次の問題をそうだな―――」
沙耶香が私達の前から消えたというのに・・・日常は全く変わらなかった。
彼女が居なくなったことに不思議がる者は居らず、授業もこうして順調に進んでいた。
全く、おかしな話だ。

◆

夏だということで、図書館はガンガンにクーラーが効いていた。
といっても私がそういうふうに設定したのだが。
時間は丁度昼前で、1、2年の生徒はこの夏休みを謳歌しているだろうし、
3年生は補講に精を出している時間だ。
私はというと、誰も居ない図書館の管理をしている。管理といっても、ただ椅子に座っているだけなのだが。
大体、教師という役職は固すぎて私には向いていないと思う。
なんでも決まりだ決まりだと教師でさえ校則に縛りつけ、
誰も居ない図書館の管理なんかをさせられているのだから。
「あー、暇だ!」
わざと声に出して言ってみるが、その声も空しく図書館に響くだけ。
畜生、あの鬼教頭め、いつか絶対復讐してやる。そう思いながら、再び本のリストを整理する。

何日か前の昼に、壱畝の親友でもあり幼馴染でもある飛揚 薺が図書館を訪れた。
「何、めずらしいわね。あんたがここに来るなんて。」
「はぁ、ちょっと・・・。」
私が話し描けると、浮かない顔をしてそう答えた。いかにも悩みアリという風だ。
「どう? 補講は。」
「もう、なんで夏休みに学校来なきゃいけないのって感じです。」
「ははは、まぁ、あんたも普通の学生だもんねぇ。」
そういえば、今日はまだ壱畝が来ていない。補講が始まってからここには来ていないが・・・
「壱畝は? あいつも来てるんでしょ?」
「―――っ!」
薺の表情が変わった。ということは、何か壱畝絡みの悩みだろうか。
「あの、その・・・あいつ、学校来てないんです。」
「はぁ? あの子が? だって、壱畝皆勤賞取るとか言ってたのに。」
まぁ、皆勤賞は去年の時点では無理だとは思うが・・・壱畝が学校を無断で休むような奴だとも考えられない。
「それで、沙耶香が・・・」
「っ! 柳原 沙耶香!? あの子がどうかしたの!?」
自分でも信じられないような大声を出してしまい、薺が少し驚く。
「あ、あぁ、ごめんごめん。で、何かあったの?」
「それが―――」
それから、私は夏休み前の出来事を聞かされた。
ここ数日間の間に、これほどまで事が進んでいるなんて知らなかった。
しかし、ということは柳原 沙耶香は既にあの男によって捕獲されたと考えていいのだろう。
そして、私は自分の中で無理矢理納得する。
・・・これで、いいのよ。これで・・・。

気合を入れて始めた本の整理も5分で飽きる。というか、やってらんないわよ。
大体、私にこんな細かい仕事向いていない。図書館から、壱畝達のクラスを覗いてみる。
「おー、やってるやってる。ご苦労さんねぇ、学生も。」
胸ポケットから煙草を一本取り出し、火を点けると一気に煙を吸い込む。
薺の話だと、今日も壱畝は休んでいるらしい。いつもは美味しい煙草が、今日はとても不味かった。

◆

昼。今頃、皆は一体何をしているんだろうか。やはり、補講だろうか。
今の時間なら、丁度補講中だ。あと、5分ほどでその補講時間も終わり、昼食の時間となるわけだが・・・。
「・・・ふぅ。」
僕は布団から抜け出すと、寝癖だらけの頭を掻きながらテレビのスイッチをつけてみた。
ブラウン管の中で、ニュースキャスターのお姉さんがニュースを読み上げていた。
「・・・。」
薄暗い部屋の中で、テレビの明かりがチカチカと輝く。
その輝きに気付いた七雄とシロが、それぞれベッドと机の下から出てくる。
読み上げられるニュースは、ここ何日間かに起こった殺人事件や強盗事件の事など、
全く知らない事件ばかりだった。
そして、やはり時間は止まっていないんだ、時は常に刻まれているんだということを思い知る。
思い知って何かが変わったかといえば、そうでもない。だから、どうした。それだけだ。
テレビの横では、七雄とシロがじゃれあっていた。
「・・・おいで。」
僕がそう声をかけると、2匹は僕の足元までやってくる。
「にゃー!」
「にゃぅ。」
そういえば今朝から七雄達に餌を用意していないことに気付く。
僕は、部屋の隅っこに置いてあったキャットフードに手を伸ばす。
その行動を見た七雄達は、餌を入れる皿のところへ移動していた。
「そら、食えよ。」
そう言って、キャットフードを少し多めに盛った。
朝の分をすっぽかした事に対する罪悪感もあったから。餌を食べる七雄と、シロ。
餌を食べ始めると、僕の事なんて全くの無視だ。思えば、彼女と出会ったのもこのシロがきっかけだった。
あの日、深い傷を負ったシロを抱かかえて現れた柳原さんの姿を思い出す。
「・・・。」
彼女の事を思い出せば、思い出すほど心は痛かった。わかっている。彼女は、もう居ないんだ。
柳原さんは僕達の前から去って行ったのだから。
一緒に居る時は、こんなに柳原さんを思ったことなんてなかったのに。
いざ、居ないとなると、とても寂しい。
いつか、晃と話し合った時の事を思い出す。

『お前も気付く時があるんじゃねぇ? 先に言っといてやるよ。いつからなんて関係ないな。
気付いた時には好きなんだからさ。』

確か、そんな事を言っていた。あの時は意味なんてわからなかった。
言葉としては理解できたのだが深い所では理解できていなかった。
でも、今、ようやくわかったような気がする。
何時の間にか僕は、柳原さんを好きになっていた。
「・・・でも、もう遅いんだ。」
自分にそう言い聞かせるように独り呟いて、テレビの電源を切ると、
再び布団に潜り込んで深い眠りに落ちていった。

◆

昼休み。私達の学校は、夏休みでも学食は普段通り開いている。
もちろん、言うまでもなく私達3年生のためである。補講期間中だけの営業であるが、それでも結構儲かるらしい。
その学食の食堂の片隅で、私は弁当を、晃は冷やしうどんをすすっていた。
いつもなら屋上で弁当を食べているのだが・・・。
あの日から一言も喋っていなかった晃が突然私を誘ってきたのだった。
「・・・やっぱ、気になるか、壱畝の事。」
何時の間にか箸が止まっていて、溜息をついていた私に晃がそう言った。
「そ、そりゃぁね・・・。あと、沙耶香の事も。」
「だよなぁ。俺達以外、学校中の全員が柳原の事忘れてるんだもんなぁ・・・。
あのおっさんが柳原のこと兵器っつってたけど、まさか関係あんのかな?」
「・・・そりゃ・・・自衛隊まで動いてたってことになると、信じるしかないでしょ。」
「・・・だよなぁ。」
晃が肯きながらうどんをすすった。
「それより、庸介よ。」
「なんか変わったことでもあったのか?」
「ううん。おばさんに聞いたら、ずっと寝てるって。食事もそんなに取ってないみたい。」
おばさんからそう聞いた時は驚いた。あの庸介が、ここまで落ち込むなんて思ってもみなかったから。
そして、ちょっとショックも受けた。それほどまでに、庸介は沙耶香の事が好きだったのだ。
「ちょっと、意外だなって思った。あの庸介が・・・ここまで落ち込むなんて。」
「・・・そうかな。」
晃はそう言って最後の一口を食べきり、仕上げに出汁も最後まで飲んだ。
「俺は、意外だとは思わないな。」
「だって、あの庸介がだよ? その、ここまでヘコむってことは・・・」
「柳原の事、それだけ好きだったんだろ。」
「そりゃ、私だって・・・沙耶香と話してる時のあいつの楽しそうな顔見てたらそう思ったけど・・・。
でも、そこまで思っていたなんてね・・・。なんかあったのかしら?」
「いいや。人が誰かを好きになるのに、理由なんていらないだろ。気付いたら好きだった。
ただ、それだけのことだ。」
晃にしては、真剣な顔でそう言った。こういった時、いつも一番にふざけるのが晃だと思っていた私は少し驚いた。
やはり、晃でもこういう一面は、持っているんだ。
そして、晃は更に続けた。
「俺だって・・・俺だって気付いた時にはお前が好きだったんだからな。」
そう言う晃の顔は少し赤かった。
やはり、あの日晃が言った事は幻聴でもなんでもなかったようだ。
今日だって、学食に誘われた時からその話を振られるなとわかってはいたのだが、
やはり慌てた答えしか返せなかった。
「じょ、冗談でしょ、またまた。殴るわよ。」
晃の事だ。また、冗談に決まっている。晃は普段から冗談ばかり言っているが、
友達思いの優しい奴でもある。元気のない私を励まそうとして、たまたま思いついた冗談なのだろう。
そう思って、私も軽く返した。しかし、違った。晃は、これまでに見たこともないような真剣な顔で言った。
「冗談なもんかよ。今まで機会がなかったから言えなかったけどな・・・このままだと
卒業して結局言えず仕舞いになっちまうから・・・だから言う。何度でも言ってやる。俺は、お前が好きだ。」
「・・・。」
晃が、私の事をそういう風に見ていたのは少し驚いた。そして、嬉しくもあった。
相手がどんな奴であろうと、そこはやはり私も女だ。女として好かれる事は、悪くない。
でも・・・晃の告白を受け入れることは、私にはできなかった。
別に、晃が気に入らないとか、そういう理由ではなかった。
気になっている奴が居るのだ。小さい頃からよく知っている、幼い頃からずっと一緒だった、幼馴染。
とても真面目な性格で、でもとても弱くて・・・。
そういえば、晃の言う通りかもしれない。誰かを好きになるのに、明確な理由など要らないのだ。
私は壱畝 庸介という人を、何時の間にか男として見ていた。それは、衝動に近かった。
庸介の性格、喋り方、仕草・・・そのどれもに、何時の間にか惹かれていたのだ。
だから、私は言った。
「ごめん・・・。悪いけど、それは無理だわ。」
「・・・。」
しばらく俯いて黙っていた晃だったが、次に私の顔を見た時には、いつも通りの笑顔だった。
「ははは、やっぱり? そうだよなぁ、突然、そんな事言われても、困るよな。」
「い、いや! 困らない! 嫌でもないけど・・・ごめん、嬉しいけど。でも、やっぱり・・・」
「わかってるよ。」
「え?」
「今のお前見てると。壱畝だろ? ま、あの時、街でのお前の事見てたら何となくだけどわかったしな。」
「・・・うん。でも、あいつは・・・沙耶香が、その・・・」
庸介は沙耶香が好きで、沙耶香は庸介の事が好きなのだ。
私は、お互いがお互いの事を思っているのを知っている。
だから、私の望みは叶えられないことくらい自分でもわかっている。
しかし、晃は笑ってこう言ってくれた。
「大丈夫だって。柳原・・・あいつはもう居なくなったんだ。俺達にどうこうできる問題でもなぇ。
あのおっさんなら、悪いようにはしねぇだろ・・・多分。そんで、今、庸介を慰められるのはお前しか居ないだろ?」
「でも・・・」
「ったく、やっぱ俺ってこういう運命なんだなぁ・・・一生、こうやって生きていくんだなぁ・・・。」
「ごめん。」
「あぁあぁ、もう謝んなって。惨めになるだろ、俺。ま、これからも仲良くやろうぜ。」
晃は無理矢理笑顔を作りながらそう言って私の肩を2度叩いた。そんな晃に顔を合わせられず、
私は俯いたまま頷いた。
「・・・うん。」

◆

男は、暗い部屋の中央に立っていた。いや、正確には”立たされていた。”
そして、男を囲むようにして、スーツを着た男達が椅子に座っていた。
立っている男は夏だというのに、相変わらず黒いコートを着ていた。いつも通りの、オールバックで固めた髪形が、
彼にいつもの威圧感を与えていた。
「柳原 玲二は一歩前へ。」
男は名前を呼ばれ、立っている位置から一歩前へ出る。
部屋が暗いため、椅子に座っている男達の顔はよくわからない。
が、どういう立場にあるかは男、柳原 玲二にもわかっていた。自分の目の前に座っている、
スーツ姿の男達は自分の所属する組織の上層部ともいうべき人々だ。
そんな人達に、こんな場所に呼ばれる理由も、玲二にはわかっていた。
玲二が黙って頭を下げると、会話は始まった。
「忙しい中、出頭ご苦労。さて、先日の件だがね。」
「その件ですが・・・」
「あぁ、すでに報告は聞いているよ。」
「申し訳、ございません。」
玲二は、再度頭を下げる。
「いや、いいさ。しかしまぁ、たかが小娘一人に自衛隊総動員とはやりすぎではないのかね?」
そう言って、椅子に座った男達は紙の資料に次々と目を通していく。
それは恐らく、前日の演習と称した作戦に要した費用及び、当日の報告書が纏められたもののはずだ。
「実際に数年前の実験から取れた数値を見る限りでは、そう思うがね。」
「いえ、奴はあなた達が思っている以上に危険な存在です。
奴は”できそこない”で、未だに覚醒しきれていないものの何度かその兆候は確認されています。」
「つまり、君は彼女がとんでもない化け物にでもなると?」
「その可能性はある、ということです。あなた達が捕獲命令を出した以上、
こちらも命を賭けて行動を起こさなければ、消されるのは私達の方なのです。」
「・・・そうか。で、実際に行動してどうだったね?」
「どう、と言われましても。先程述べた通り、覚醒の兆候が・・・」
「そうではない。父と娘の関係として、だよ。」
闇の奥から、人を馬鹿にしたような笑みを含んだその言葉に、玲二は顔を顰めた。
目の前の男達も、分かっているはずだ。自分がどんな思いで、この任務を遂行しているかを。
「やはり、辛いかね? なんならこの任務を降りてもいいんだぞ?」
「いえ。お気遣い、お構いなく。奴を造ったのはこの私でありますので。」
「そう、か。いや、君が割り切れる男でよかったよ。なら、君には早速と動いてもらうよ。」
「はい。」
「では次のミッションを伝えよう――」
しかし、男達の口から伝えられたのは、玲二にとって信じられない命令だった。

◆

深い眠りから、目を覚ます。部屋の時計を見れば、時刻は夜の7時丁度だった。
どうりで部屋が暗いはずだ。しかし、そろそろ何か食べないと、本当に危ないかもしれない。
部屋の明かりをつけて周囲を見渡すが、空腹のためか、思考力が現実の動きについていけずに、放心状態になる。
・・・少し、台所に行こう。そう思って、僕は部屋を出た。

一階に下りると、そこは真っ暗だった。どうやら親は居ないようだ。
そういえば、寝ている時に旅行に言ってくると聞いた気もするが、どこに行ったか、行き先までは覚えていなかった。
まず、食材の確認をするため冷蔵庫を開けると、そこには何もなかった。
母さんも、僕がこんな状態なので夕食は用意していかなかったんだろう。
しかし、買いに行くのも面倒くさいな。そう思って、僕はお茶のペットボトルを冷蔵庫から取り出した。
別に、これでいいや。そう思って、ペットボトルに口を付け、お茶を流し込む。
「―――っ、げほっ、げほっげほっ!!」
もう何十時間も飲まず食わずの体にいきなり入ってきた飲み物に体が驚いた。
急に冷たい飲み物を飲んだので、器官に入って咽る。と、同時に自分の手からペットボトルが離れ、
床にお茶をぶちまける。
「・・・くそっ!」
ただお茶をこぼしただけ・・・今はそのことだけでもとても腹が立った。
どうせ、僕は何もできないんだ・・・。こんな事で、腹を立てても仕方ないじゃないか。
・・・いや、何もできないから、こんな事にまで腹が立つんじゃないのか?
そんな事をただぼぅっと考えていると、自然と怒りも収まっていた。

◆

時刻は7時。夏の夜といっても、やはり周囲は暗くなっていた。
補講を終えた私は家に帰って自分の部屋に荷物を置くと、直ぐにまた家を出た。
そして今、私は庸介の家の前に立っている。入っていいものかどうか悩みだして、
もうかれこれ30分近くになる。
(・・・何してるんだろ、私。これじゃ変態ね。)
外から、ずっと庸介の部屋を見ていた。電気はずっと消えたままだ。
晃に言われて来てみたものの、いざ家に入ろうとすると躊躇う。別に家に入るだけなら何の問題もない。小さい頃から、自分の家のように勝手に出入りしていたし。
ただ、躊躇う理由は他にあった。落ち込んでいる庸介を見たくないのだ、私は。
いや、正確に言うと、沙耶香の事で落ち込んでいる庸介を見たくないのかもしれない。
(私って、嫌な奴。)
そんな事を心のどこかで呟きながらも、ここでずっとこうしていても埒があかないと、
そう自分に言い聞かせて、私は家の中へと入っていった。鍵は掛かっていたが、
合鍵の場所もきちんと覚えていた。
「こんばんわー。」
そう言ってみたものの、返事はない。どころか、家の中は真っ暗だ。
どうやらおばさんは旅行にでも行ったみたいだ。数日前のうちのお母さんとおばさんの話を聞くところによると、
今はおじさんも出張中らしい。と、いうことは庸介1人だけということだろうか? 
と思うとすごく不安になってきた。家の奥の暗闇が、何か私に不吉なものを知らせてくるようで・・・。
「・・・入るわよ?」
誰に言うでもなく、一度そう言ってから中へと入ってゆく。
まず最初に、居間とキッチンの電気を点ける。
「な、なにこれ・・・」
電気を点けて明るくなった部屋。キッチンの方へ行くと、そこはいつもの綺麗に整ったキッチンではなかった。
椅子は無造作に机の下から引っ張り出され、
冷蔵庫の扉は半開き。床にはペットボトルが転がっていて、中身が派手に飛び散っていた。
「庸介? 居るの?」
呼んでも返事はない。どうやらキッチンには居ないようだ。と、するともう庸介の部屋しかない。
階段を上ってすぐ左のドアを開ける。
「庸介?」
同じく、部屋は真っ暗だった。名前を呼んでみても同じように返事はない。いや、返事はあった。
「にゃー」
七雄だ。気付けば、猫の七雄が私の足元に来ていた。
そしてもう一匹の猫、白い猫も私の足元に居た。
見たのは初めてだが、以前庸介から話をきいていたので、それがすぐシロという猫だということがわかった。
そして肝心の庸介の返事がないが、私は部屋の電気を点けてみた。
部屋が急に明るくなる。目が痛かったがそれも直ぐに慣れ、見慣れた庸介の部屋が現れる。
そして、庸介は・・・ベッドの上で寝ていた。
「庸介?」
「・・・。」
目は開いているがその目には以前のような活力の色もなく、ただ無気力に天井を眺めていた。
「よーうーすーけっ!」
もう一度、名前を呼びながら、庸介の視界を遮るように私は寝ている庸介の顔を覗き込んだ。
「・・・薺?」
「そうよ。ったく、あんた補講にも来ないで何やってんのよ。」
「・・・悪い。でも、行きたくないんだ。」
「ほら、とりあえず起きなさい。」
庸介の両の手を引っ張って体を起こす。その表情も既に病人のそれだった。
「はぁ・・・。」
大きく一回溜息をつく庸介。
「ご飯は? ちゃんと食べてるの?」
私の問いに、庸介は返事をよこさない。恐らく食べて無いのだろう。
そりゃそうか。この状態を見れば聞くまでもない。先程、冷蔵庫の中を覗いてみると、卵しかなかった。
家から何か材料持って来たらよかったと今になって思う。
「まぁいいわ。私が作ったげるから、とりあえず下の部屋に行こ?」
「・・・うん。」

フライパンの上で、目玉焼きがいい色に焼けていた。
やはり目玉焼きは半熟が一番だ。外はしっかり、中はとろりとしているのが、一番いい。
好みに合わせて作ろうと思えば、基本料理であるが技術もそれなりにいる料理である。
もうそろそろだと思った所で火を止め、フライパンの中身を皿に移し変える。
麗な円を描いた目玉焼きが乗った皿を庸介の前に出す。
「はい、薺特製の目玉焼き、お待ちどーさん。」
「あ、あぁ。それじゃ、いただくよ。」
申し訳無さそうに少し微笑んだ後に、目玉焼きを口に運ぶ庸介。
しばらく口を動かして、
「・・・美味い。」
と一言、そう言った。作った者としては、この一言こそが一番嬉しいのだ。だから、私としては大満足だ。
「そ。ならよかった。」
庸介の向かいの席に座る。
「沙耶香の事、つらい?」
私がそう聞くと、庸介は一瞬固まった。
「そりゃ・・・辛いさ。」
「そう、なんだ。」
「あの時僕は何もできなかった・・・。柳原さん、泣いてたのに慰めることもできなくて、
最後まで、何もしてあげられなかった・・・。」
「で、でもっ! それは・・・それは庸介が悪いんじゃないよ。仕方ないって。」
「仕方ないもんか。僕は、薺みたいに料理とかみたいな特技もなければ、晃のような夢も目標もないんだ。
それで、柳原さんも守れなくて・・・僕は、僕は・・・」
そう言う庸介の体は何時の間にか、震えていた。
そんな庸介を見ていると、私は何も言えなかった。庸介が、自分の事をここまで責めているとは知らなかったから。
私がずっと黙っていると、再び庸介は独り言のように呟いた。
「それに柳原さんが居なくなって、僕は初めて気付いたんだ。僕は、彼女の事が好きだったんだ。」
「―――っ!!」
一番、聞きたくなかった言葉だった。でも、私は聞いてしまった。庸介本人から。
わかっていた。でも、その言葉は私の胸に深く突き刺さった。
「そ、そう。と、とりあえずさ! 明日から学校来なよ!」
「薺・・・?」
「いつまでも引き篭もってたって、気分は晴れないわよ!」
「・・・そう、か?」
「当たり前じゃない! それじゃ、明日、忘れず学校来るのよ!」
「あ、ちょっと」
庸介が止めるのも待たず、私は部屋を飛び出していた。
あんな事を言われて、平気な顔をして庸介の前には居られなかった。
玄関を出ると同時に、頬を熱いものが伝った。一度流れ始めた涙を止めることはできなかった。

◆

それは、夜も12時を過ぎた深夜のことだ。
「さーってと・・・明日も補講だし、そろそろ寝っか。」
誰も居ない自分の部屋で独り寂しく宣言した後に、布団の中に潜り込む。
そして、今日1日の出来事を振り返って見る。やはり、1番に思い浮かんだのが食堂での事だ。
結局、チャンスというチャンスは作れず、数日前に勢いに乗った形で告白した俺は
今日鮮やかに当たって砕け散った。それはもう分子単位に砕け散った。
まぁ、機会があったと言えば、先日のあの時が機会だったのだろう。
砕け散ったのは何も勢いで思いを伝えたからじゃないが・・・。
でも、薺が壱畝の事を想っていたのは前から薄々と気付いていた事だった。
(仕方ない、か。まぁ、女は世界に山ほど居るんだ。)
そうやって自分で考えておいて最低だな、
と思える理由で言い聞かす自分を、我ながら情けなく思う。
これじゃまるで負け犬の遠吠えじゃないか、と。(実際にそうなのだが。)
でも、悔しいのは確かだ。俺は頭が悪い。
壱畝や薺、柳原と違って、安定した成績を取れるわけでもない。
テストも毎回がサイバイバルだ。そして今回、恋愛面でも壱畝に負けた。
いや、勝ち負けにすること自体が間違っているかもしれないが・・・そういうことになる。
俺は何が出来るんだろうか? 壱畝や薺にできないような何かが俺にはあるんだろうか。
俺だって、できることなら進学したい。
進学して学生になれば、あと数年は今のように馬鹿騒ぎもできる。
でも、俺にはそうする勇気はない。進学するにも学費や生活費も要る。
俺みたいな馬鹿な奴が進学すると、学費が無駄になるだけなのはわかっている。
だからといって、真面目に勉強する勇気も根性も俺にはない。
だから俺は就職を選んだ。何もかも諦めようと決めた。
親父の血筋の人が富田製薬に居ることで、なんとか就職もできそうだ。
ならいっそ、もう楽な道に進めばいいじゃないかと俺は就職の道を選んだ。
だから・・・悔しい反面、壱畝や薺が羨ましくもあった。
「晃ー! もう寝たの、晃!?」
突然、お袋がそう言って俺の部屋のドアを叩いた。
少し眠くなってうとうとしていた頭を再度覚醒させて、体を起こす。
「ったく、うっせーな。なんだよこんな時間に。」
「電話。飛揚って子からだけど。」
「飛揚・・・薺か!?」
俺は急いでリビングに行くと、受話器を取った。
「もしもし、俺だ。」
『・・・。』
「薺?」
『晃・・・私・・・』
その声は、いつもの活気ある声ではなかった。
本当に薺なのかと思うくらいに、弱々しい声に俺は慌てる。
「ちょっと、何があったんだ、おい薺!?」
『うぅ・・・』
受話器から漏れてくる泣き声。何か、とても嫌な予感がした。
「あーくそっ、とりあえず公園に来い! 話聞いてやっから! わかったな、おい!」
『・・・うっ、うん。』
聞こえるか聞こえないかの小さな返事を聞いた後、受話器を置いて俺は家を飛び出した。

公園に行くと、すでにベンチに薺が座っていた。そういや以前ここで壱畝とも何度か語り合ったことを思い出す。
あの時は確か・・・将来の夢とかなんとか、青春を語り合った気もする。
今になって思うと恥ずかしいことを話していたもんだ。まぁ、今度の話も青春の一頁ってことか、
などと1人訳の分からない納得の仕方をして、薺の隣に座った。
「よっ、わりぃ遅れた。」
「晃・・・晃ぁ・・・」
「うぁー、お前まず顔どうにかしろ。ほれ、ティッシュ。」
涙や鼻水などで、薺のいつもの爽やかな凛とした表情はなく、顔は崩れ切っていた。

「で、壱畝が柳原のこと好きだって言ったわけだ。」
「・・・うん。」
「だから言っただろ。あいつが柳原の事好きなのは仕方ないことだって。」
「でも! でも・・・わかってたんだけど、目の前で本人からはっきり言われて、わかったの。」
「わかった? 何が?」
「庸介は沙耶香の事が好きで、好きで、とっても好きで・・・私の事なんて眼中に無いもの。」
「・・・はぁ。」
もう、俺の目の前に居る薺にはいつものような自信はこれっぽっちもなかった。
ただ現実に絶望して、涙して項垂れる、弱い女の子だった。
でも、そういうものなのかもしれない・・・などと危ない思考がよぎったのを、俺は首を左右に振って払いのける。
「・・・ならさ。時間かけてでもいいんじゃぇの?」
「え?」
「急に思うようにはいかないって。ゆっくりでもいいから、壱畝に本当のお前を見てもらえるようになるまで、
時間かけりゃいいじゃん。」
「時間を、かけて?」
「そう。だから焦んな。卒業して、大人になってもいいから。お前が壱畝を支えてやれ。
あいつも馬鹿じゃないんだ。いつかは振り向いてくれるさ。」
「・・・本当に?」
「んー、80%。」
冗談のつもりで言ったが、薺の瞳から再び大粒の涙が零れだす。
「あーわかったわかった。100%だ。俺を信じろ、絶対いける!」
「・・・ん。」
薺は涙を拭いながら、肯いた。

「じゃ、色々と、ありがとう。」
「ああ。んじゃ、また明日な。」
「うん、おやすみ。明日、遅刻すんじゃないわよ。」
「・・・ああ。」
薺が去った後、暗い公園に俺1人だけが残される。周囲の街灯で照らされているといっても、やはり夜だ。
俺は、複雑な気分だった。
想いを告げて拒まれて、諦めたつもりだったけど・・・正直言ってやっぱりまだ薺の事が好きなんだ、俺は。
その薺に、恋の相談を受け、励ます俺。
一体、俺ってなんなんだ・・・。そう考えると、こうして1人夜の公園のベンチに座っている自分に哀愁を感じてしまった。
「・・・はっ!? 俺ってピエロ!?」
俺の背後を冷たい風が吹きぬけた・・・ような気がした。

◆

次の日、目が覚めてなんとなく時計を見てみるとまだ7時頃だった。
そして昨日、薺に言われた事を思い出す。
「学校・・・か。」
以前のように勉強に集中すれば、辛いことも全て忘れられるかもしれない。
そう思った僕は、制服を着て家を出た。でも、本当はそれだけじゃなかった。
昨日薺が帰る寸前に見せた表情がとても悲しそうで、まるで泣いているようだったから・・・。

夏休みに入った学校の雰囲気はいつもとはかなり違うかった。
不気味とも言える静けさが校舎全体を包み込む。
だが、それでも3年生のクラスにだけはいつも通りの喧騒があった。
自分のクラスのドアを開けて教室に入る。
ずっと休んでいたからだろうか、最初は周囲の視線を感じたが10分もしないうちにそれも感じなくなる。
「よぉ、壱畝ー。お前、なんで休んでたん?」
クラスメートの1人が声をかけてくる。
「あ、うん、ちょっとね。」
「夏風邪か? あぁ、まぁそんなことよりもこれ。補講期間中に使用するテキスト。
先生から預かってたから渡しとく。」
クラスメイトから、赤いテキストと青いテキストの2冊を受け取る。
『目指せ、志望校!』というこのシーズンにはありきたりなスローガンがテキストの表紙に印刷されていて、
少し笑った。志望校もない僕がこのテキストを持っていることにだ。
貰ったテキストを鞄の中にしまうと、柳原さんの席を見た。
「・・・え?」
それは、明らかにおかしかった。
机の中には今まで補講に使ったものであろうプリントが無造作に詰め込まれている。
そして机の上には、段ボール箱が山積みにしてあった。
僕はまさかと思いながら、先程のクラスメートに話しかける。
「ねぇ、ちょっと・・・」
「え、何?」
「あの席って・・・」
柳原さんの席を指差して聞くと、クラスメイトは最後まで聞かずに喋りだした。
「あぁ、あれな。スゲェよな。補講期間中にあの段ボール箱ん中のプリント全部やるらしいぜ。」
「違うよ、あの席! あの席って柳原さんの席だろ!? なんであんなもん置いて―――」
「は? 誰、柳原って」
「誰ってお前・・・いや、いい。ありがとう。」
「なんだ、やっぱまだどっかおかしいんじゃないのか?」
「だといいんだけどね・・・。」
そうだ。こんな現実を突きつけられるくらいなら、
いっそ頭か精神がおかしくなってしまいましたというオチの方がマシだ。
おそらく、柳原さんの事を忘れているのは一人だけじゃないはずだ。
この学校の生徒全員、いや先生も含めて、柳原さんに関わった者全ての記憶が、
どうやってかは知らないが書き換えられている。
これも僕の推測だが、柳原さんには何らかの不思議な力を持っている。
非現実的かもしれないが、そう考えるしかないだろう。
そういった力の事を”兵器”というのなら、あの街で出会ったコートの男の言った事は全て正しかったことになる。
「そんな馬鹿な事・・・」
そうやって様々な考えを頭の中でぐるぐる掻き回している内に、晃や薺も教室に入ってくる。
「おーっす・・・って、おい壱畝! お前やっと来る気になったか、こいつ!」
「う、うぁ、苦しいって。」
晃は僕の姿を確認するなり、いきなり腕で首を締め付けてくる。
「こら晃離れなさいって。」
「おーぅ薺! 見ろ、壱畝が来たぞー!」
「やめてくれ、恥ずかしいから。」
「・・・。」
「・・・。」
その時、薺と目が合った。最初は何かとても気まずそうな顔だったけど、すぐにいつもの表情に戻っていた。
「あ、昨日は、ご飯ありがとう。」
「・・・うん。でも、ちゃんと学校来たんだ。」
「別に、来くて来たわけでもないんだけどね。少しでも気が紛れるといいと思って。」
「・・・。」
「・・・。」

補講が始まると、いつにもまして教室の中は静かだった。
しかし静かな中に、微かな闘志も感じた。受験に対する闘志を。
いつもの授業なら寝ている奴や話している奴らも多いが、
今は真面目に机に向かう生徒ばかりだ。だからだろうか、教師も普段より気合が入っていた。
今の教室にのんびりと授業をするという気配などこれっぽちもない。クラス全体が闘志に包まれていた。
そんな中で僕はずっと窓の外を眺めていた。
勉強に集中できるかもと思って来た補講だったけれども、いざ机に座ると集中できない。
ずっと窓の外を見ていると、結構色々な変化があって面白い。
(・・・あんな所に自動販売機なんてあったっけ?)
たまに新しい発見もした。
夏の空には、大きな入道雲が出ている。帰るまでに雨が降らなければいいが。
(あ、そういえば・・・)
空を見て、ある事を思い出す。それは、いつかの夜の公園での事。
柳原さんは言っていた。以前はずっと空を見ていたと。
(今も、こうやって見ているのかな・・・)
「―――ぃ、おい! 壱畝!!」
突然名前を呼ばれて教卓の方を振り返ると、英語教師がこちらを睨んでいた。
「はい、なんですか?」
「テキストの37ページの3行目、英訳しろ。」
僕は机の上に置いていたテキストの37ページを確認する。確認しただけ。
「わかりません。」
「おい、いかんぞ。このくらいの英訳できんでどうするんだ。」
「すみません。」
「それに授業中になんだ、外ばっかり―――」
それから10分、いや20分くらいだろうか、英語教師の説教は続いた。

◆

昼休み。昼食も持ってきていなかった僕は何もすることがなく、屋上に行った。
屋上に行くと、じりじりと焼けるような暑さが襲ってくる。
こうして馬鹿みたいにぼぅっとしている間にも、皮膚の表面組織をチリチリと日光が焼いていく。
金網越しに見える景色は絶景だった。
今まで屋上にはあまり来たことがなかったので、こうして意識して景色を眺めたのは初めてだ。
毎日のように薺がここで昼食を食べていたのも納得できる。
「綺麗でしょ。結構気に入ってんのよねぇ、この景色。」
何時の間にか、僕の隣には薺が立っていた。
「・・・うん。」
「はい、これ。」
僕が景色を眺めていると、薺が横から何かを渡してきた。
薺の手にあったのは、とても大きな弁当箱だった。
「おばさん旅行でおじさん出張でしょ、どーせあんたの事だから何も無いんでしょ。」
もう片方の手には、小さな弁当箱もあった。おそらく薺本人の。
「一緒に食べようよ。」
ありがたかったけど、でも―――
「ごめん、今は食べたくないんだ。」
何故か、とても体がだるくて食欲もなかった。最近何も食べていなかったから、
とうとう夏バテにでもなったのだろうか。
「でも、食べなきゃ元気でないよ。一口だけでも―――」
「だから今はいいって!」
僕はそう言って、薺の手を払いのける。と、薺の持っていた弁当箱が足元に落ちる。
「あ―――」
そこで初めて自分が苛立っている事を理解し、後悔する。いつものように冷静を取り戻した時にはもう遅い。
「ご、ごめんね。食べたくないのに無理矢理押し付けて・・・」
「っ!」
薺は苦笑いしながら、落とした弁当箱を拾い上げていた。その光景を見て大きな罪悪感が僕を襲う。
でも、その罪悪感も一瞬で冷めた。
「大きなお世話なんだよ、そういうの・・・。」
「え・・・」
「もう放っておいてくれよ。そんなに僕が惨めに見えるのかよっ!」
「・・・」
薺は落ちた弁当箱を持って、立ち上がる。が、僕の方は見ていなかった。
「そんな同情いらな―――」
その時だった。屋上に短く乾いた音が響いた。
最初は何がどうなったのかわからなかったが、右頬に軽く痛みが走って自分が打たれた事に気付く。
「あんたはいいわよね・・・そうやってウジウジしてるだけで・・・馬鹿じゃないの?」
薺は泣いていた。薺が泣いているところなんて、高校になって初めて見た。
「あんた見てると私までイライラしてくるわ。あんた、沙耶香が私達の前から消えたって・・・もう戻ってこないなんて、本気で思ってんの?」
「え?」
「沙耶香は、私達の記憶だけは消さなかった。何故だかわかる!? 
沙耶香はまだ諦めてないのに・・・あんたは何よ、女みたいにいつまでも! 
すべてが終わったみたいに情けない顔して!同情!? 笑わせないで! 
あんたみたいな奴に同情するほど私も暇じゃないの!」
「・・・。」
「馬鹿みたい・・・!」
薺はその場を走り去った。僕はというと、何も言い返せなかった。
それどころか、走り去る薺を引き止めることもできなかた。僕1人となった屋上に、寂しく風が吹いた。
「何やってんだ、僕は。」
「全くだぜ、本当に。」
返答を求めていなかったただの独り言なだけに、少し驚いて声の方を振り返ると、そこには晃が立っていた。
「お前、顔が死人だな。」
そう言う晃は、いつも通りケタケタと笑って俺の方へと歩み寄った。
先程の薺とのやりとりを見ていたはずなのに・・・
「お前は怒らないのか? こんな僕を。」
「んー、確かに、最近のお前はダメダメだな。でも、俺が腹立ててもしょうがねぇだろ。」
「・・・そうか。」
「・・・。」
晃は何も言わずに、僕の隣に座った。
空は入道雲で覆われていて、どこからかヘリコプターの飛ぶ音が聞こえるが、
肝心のヘリコプターは何処に居るのかわからない。
「なぁ、ふられちまったよ、俺。」
「え!?」
「ま、あの柳原が居なくなった日さ・・・ちょっとした会話から勢いで言っちまったんだ。
そしたらもう見事に。あはは。」
照れ隠しのように頭を掻きながら笑う晃。不思議だった。
なんで、こいつはこんなにも笑っていられるんだろうか、と。
「お前って、強いよな。」
「あ? そんなことねぇよ。」
「僕はお前が羨ましいよ。進路もちゃんと決めてさ、そうやって辛いこともみんな笑いとばせて。」
「はぁ、お前な。こう見えて俺もかなり辛いんだぞ?」
「え、そうなのか?」
「当たり前だろ。人間誰もが絶対1つは悩み持ってんだ。
お前が思ってるようなそんなスゲェ人間、何処探しても居るはずないね。」
「でも、お前は僕よりずっと凄い奴だ。僕は目標なんてないし、そのうえ力なんてこれっぽっちもない。」
と、その時だ。僕の頭を晃のデコピンが直撃した。
「だからお前は薺に打たれるんだよ。」
「え?」
「俺からすれば、お前が羨ましいよ。」
「なんでだよ。冗談言うな。」
「確かに喧嘩すれば力でお前に勝てるかもな。でも、それだけだ。
力があっても、俺みたいな馬鹿には就職しかないからな。」
「お前・・・」
「お前はいいさ。進学しようと思えばできるしさ、就職しようとすれば就職もできる。」
「!」
「だからさ、お前もうちょっと頑張ってみろよ。
おっと、薺が気になるから俺はもう行くぜ、へへへ。
本当はお前が追いかけるべきだけど、今のお前だとスンゲェことなりそうだしな。借りは返せよ。」
それだけ言って、晃は僕に背を向け歩き始めた。僕は、やっと気付いた。
「なぁ、晃。」
僕が名前を呼ぶと、晃は振り向かずに足を止めた。
「僕って、なんでこんなにも駄目なんだろうな・・・。」
その問い掛けに、晃は今度も振り返らず答えた。
あぁ、今、はっきりとわかった。
僕は弱い人間だ。でも、僕は今までその弱さを自分の非力さのせいにばかりしていた。
確かに非力かもしれない。でも、そうじゃない。そう、僕は―――
「さぁ、逃げてるだけじゃねぇの?」

◆

5時間目の予鈴が鳴り、短い昼休みも終わってしまった。
生徒が居なくなった図書館は再び静まり返り、残った私だけが空しく椅子に座っていた。
午後からは、来月入荷する本のリストを整理しなければならない。
「次は何を入れようかなぁ。」
色々な本が載ったカタログに目を通していく。
しかし色々な本がある。中には見ると頭が痛くなりそうなものまで。
というか、需要の無さそうな本がカタログの大半を占めている。
(何、この東洋魔術とか・・・誰か読む奴居るわけ?)
「うーっ、漫画雑誌とかないのかねぇ。」
と、その時だ。図書室の扉が開く音がする。
こんな時間に図書館に来るのは大抵が補講をサボる生徒である。カタログから目を離さずに、
「おーい、もう授業はじまってるわよー、早く教室に戻んなさい。」
と、教師としてはお約束の台詞を口にする。私自身が高校時代にサボり癖があっただけに、
こういう注意をするとちょっとおかしな気分になる。
「残念。僕は生徒じゃないよ。」
その声に、私は驚いて顔を上げる。目の前には、あの男、柳原 玲二が立っていた。
「ちっ、あんたか。何よ、私は忙しいの。」
「いやー、さっきの台詞は笑えるなぁ。君も真面目に教師をやってるんだなぁ。」
ニコニコと、セールスの押し売り人のようなスマイル顔でそんな事を言っているので、
私は玲二を睨んでやった。
「あ、あはは。怒るなよ、もう。カルシウムが足りてないぞ。」
男はポケットの中から“カルシウム配合”と書かれた飴を取り出した。
「で、本当に何の用よ。また訓練? もう全部終わったんでしょ。」
「終わってないさ。」
「え?」
「あの日、確かに僕は沙耶香と接触した。でも、捕獲は無理だったんだ。」
その言葉に驚きを隠せない。何故なら柳原 沙耶香はもうこの学校には居ない。
玲二の元へ戻ったものだと思っていたからだ。
「その様子じゃ、もうここにも居ないようだね。」
「・・・ええ。そうよ。私も、てっきりあなたの所へ戻ったものだと思っていたわ。」
「そうか。」
玲二はそう言って静かに目を閉じた。
「上層部が、本格的に動き出した。当然、僕にもそれなりの仕事が回ってきた。内容は―――沙耶香の抹消。」
背筋が凍りついた。抹消・・・それは殺すということだ。
「一応、君にも伝えておかなければならないだろうからね。あの子の母として。」

◆

家に帰ると、やはり誰も居なかった。
母さんは日本の最北端に旅行に行っているので、あと2,3日は帰らないらしい。
学校から帰ってすぐに、父さんからも電話があった。なにやらとても忙しそうで、
仕事の内容はあまりわからないのだがあと数日は帰れないらしい。
あと何日かは1人暮らしになりそうだった。僕は帰ってから直ぐに、鞄からある物を取り出した。
それは、今日の放課後に進路指導室から持って帰ってきた様々な大学のパンフレットだった。
僕は進学することを決めたんだ。
今からじゃ、そんなにいい大学には入れないかもしれないけど・・・。
それに薺の言うように、柳原さんがわざと僕達の記憶だけを消さずに残していったというなら、
まだ希望は残っているはずだ。
何日かかってもいい、何年かかってもいい。僕は、柳原さんを探すんだ。
僕は晃と、それと薺のお陰でやっと目が覚めたんだ。
(明日、薺に謝らないといけないな。)
今日、昼からの補講に薺の姿はなかった。晃に聞くと、先に帰ったらしい。
当然か、僕は薺に酷いことをしてしまったんだから。だから、明日きちんと謝ろう。
僕はそんな事を考えながら、大学のパンフレットに次々と目を通していった。

◆

誰も知らない所で事態は、大きく動こうとしていた。
深夜2時。昔から草木も眠る丑三つ時と言われるこの時間に、街に蠢く無数の黒い影。
影が目指すは1人の少年の家だった。

その頃公園のベンチには、コンビニで購入したフルーツミックスジュースをストローで吸う柳原 玲二の姿があった。
黒いコートにオールバックという彼の容姿に、フルーツミックスの可愛いパッケージはあまりにも不釣合いだ。
彼は、ふと腕の時計にやる。
「さて、そろそろ時間か。」
そう呟くとほぼ同時に、彼のコートのポケットから”声”が聞こえてきた。
『こちらA班、位置に着きました。』
その知らせを合図とするように、次々と”声”が聞こえてくる。
『こちらB班、問題ありません。』
『C班、同じく。位置に着きました。』
玲二はその声の聞こえた方のポケットからある物を取り出す。それは無線機だった。
「部屋の様子は?」
『こちらB班。部屋の明かりは既に消えています。』
「じゃぁ最終確認だ。目標は高校生、壱畝 庸介。あくまで拘束だ、傷つけるなよ。」
『了解。』
「じゃ、突入だ。」
『了解、突入します。』

◆

瞬間、何が起こったかわからなかった。玄関からもの凄く大きな音が聞こえ、
僕は深い眠りから一瞬で目が覚める。最初は地震かとも思ったが、そうではないらしい。
「フーッ」
最初の大きな音から、何も聞こえなかったがベッドの下から七雄が毛を逆立てながら出てくる。
同じく、机の下からもシロが毛を逆立てながら出てきた。猫達が何かを感じ取っている。
(1階に誰か居るのか!?)
最近は物騒だ。もしかしたら強盗かもしれない。そう思うと余計に頭が混乱する。一体僕にどうしろというんだ。
(と、とりあえず武器を持たないと!)
僕は部屋の隅に置いてあった傘を手に取る。
傘なら先に細い金属も付いていて、武器になる。
「い、行くぞ・・・」
僕は静かに部屋のドアを開けた。と、その時だ。

カラン

部屋に何かが投げ込まれた。握り拳ほどの黒光りする何かだ。それが何かもわからなかった。
その物体が何であるかと眺めていると次の瞬間、その何かから物凄い勢いで白い煙が噴出した。
「うわぁっ!!」
わけがわからず、ただそう叫ぶしかなかった。一瞬で、僕の視界は遮られた。
もう頼りになるのは耳と鼻だけだった。しかし、僕はそんな動物的感覚は持ち合わせていない。
ただわかったのは、”足音”だった。
何者かの”足音”が、しかも数人、僕の部屋に入ってきていた。
「床に伏せろ!」
「うっ、うわぁぁ!!」
僕は恐怖に駆られて、声の方に向かって傘を振り下ろした。
ガツンと、何かにぶつかる。手ごたえはあった。
しかし、よく見てみると・・・傘が捉えたのは大きな銃だった。
大きな銃というのは、よく洋画などで見るサブマシンガンのような銃だった。
そのマシンガンを持ったのは男か女かもわからない。
顔には黒くてゴツゴツした赤外線スコープのようなものをつけていて、
服装はプラスティックか金属のようなプロテクターだらけでよくわからない。
もうわけがわからなかった。しかし、これだけはわかった。僕は、殺される。
「フーッ、シャァッ!」
それは、本当に一瞬の出来事だった。
七雄とシロが、目の前のマシンガンを持った奴に飛び掛っていた。
「七雄、シロ!」
「こ、こいつっ! ええい!」
目の前の得体の知れない何者かが、猫達を振り払う。
マシンガンの側面で強く腹を殴られた七雄は、部屋の壁に物凄い勢いでぶつかった。
「この野郎!」
男はポケットから小さな拳銃を取り出すと、二匹の猫に向かって発砲した。
これもよく映画に出てくる、サイレント機能のついた銃だろう。撃ったと分かったのは、
猫の血が飛び散った後だった。
壁際で、ぐったりと横たわる七雄とシロの2匹。
一目で死んだとわかった。
「七雄・・・七雄!? くそぉぉっ!!」
僕は何時の間にか冷静を失い、怒りに任せて七雄達を殺した相手に向かって飛び掛っていた。
しかし、相手は予想もしないスピードで僕の突撃をかわすと、持っていたマシンガンを振り下ろした。
後頭部に走る激痛も一瞬、僕の視界は暗くなり、意識も遠のいていった。

◆

暗い暗い闇の中、僕は1人立っていた。
闇はどこまでも続き、東西南北上下左右の感覚もない中で僕は”浮いていた”。
そこに1人の少女が現れる。
「柳原、さん・・・?」
「・・・。」
しかし、彼女の様子はどこかおかしかった。一言も喋らず、ただ虚ろな目でこちらを見ているだけ。
それでも僕は話しかける。
「柳原さん、よかった・・・戻ってきたんだ!」
目の前に居るということは、またみんなで一緒に笑い合えるとうことじゃないか。
でも、そう思えたのも一瞬だった。
何かが割れる音が聞こえる。ピシピシ、キシキシと、何かが軋むような音にも聞こえる。
そして気がつけば―――
「や、柳原さん?」
柳原さんの顔に、ヒビが入ってゆく。まるで卵の殻か何かのように。
ピシピシ、キシキシ、ピシピシ、キシキシと、耳障りな音が僕の脳に直接聞こえてくる。
よく見ると、顔だけじゃない。腕や、足にも、そのヒビが広がってゆく。
「―――。」
その時、よく聞こえなかったが確かに柳原さんは何か呟いた。
「え、何? 柳原さん、よく聞こえないよ・・・」
「あなたが、守ってくれなかったから・・・」
「っ!」
今度ははっきりとそう聞こえた。
「痛い、痛いよ・・・助けて、助けてよ、壱畝君・・・」
涙を流しながら悲痛に訴える柳原さん。僕は、そのあまりにも痛々しい光景から目を逸らしてしまった。
でも、彼女の声だけは僕の耳にしっかりと入ってくる。
「痛い・・・助けて、助けて・・・」

ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ

「あ、ああぁぅ」

ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ

「ねぇ、壱畝君・・・ねぇ・・・」

ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ

「痛い、痛いの・・・」

ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ

「痛いぃ・・・」

ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ ピシピシ キシキシ

「やめろ、やめてくれ、お前は、お前は柳原さんなんかじゃない! 消えろ! 消えてくれっ!!」
そう叫んで、再度、柳原さんの方に視線を戻すと―――
「痛い、痛い、ねぇ助けてよ・・・助けてよぉぉぉぉっ!!!」
その瞬間得体の知れない何かが、柳原さんの内側から飛び出てきた。
飛び散る内臓、脳髄、骨、筋肉、血―――
「う、うぁぁぁぁぁぁああああああぁぁあああああっ!!」
叫んだ。腹の底から。涙が出た。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・」
気付くと僕は涙を流し、息を荒くしながらベッドに横たわっていた。
僕は自分の叫び声で目を覚ました。
(ゆ、夢・・・)
そう気付くのに時間もかからなかった。
周囲を見渡すと、何もない。いや、本当に何もなかった。
あるのは白い壁と、白い天井、それに蛍光灯。なんとも無機質で殺風景な部屋なのだろうと思い、僕は体を起こす。
そこで初めて、自分の腕が太い鎖で繋がれていることに気付く。
「なんだよ、この鎖」
と、突然、後頭部がずきりと痛んだ。そして、やっと思い出す。あの部屋での光景を。
殺された七雄とシロ、僕は怒りに任せて相手に突っ込んでそれから―――そこで記憶は無くなっていた。
じゃぁ、ここはどこなんだ?
もう一度、部屋を見渡すが、本当に何もない部屋だ。
窓すらない。その時だ。部屋にあるたった一つのドアが開き、一人の男が入ってくる。
「やぁ、目が覚めたかい。」
「あ、あなたはっ!!」
その男は見間違えるはずもない、あの街で出会った男だった。
「汗かいてるね。悪い夢でも見た?」
「そっ、そんなことよりここはどこうぅっ!!」
大声を出すと、頭に響く。恐らく殴られたのが原因だろう。
「あぁ、すまんねぇ。僕の部下が不甲斐ないばかりに君に危害を加えてしまった。謝るよ。」
「そ、そんなことより・・・一体ここはどこなんですか?」
「ここかい? ここは、表向きには精神病院と呼ばれる所だよ。」
男の言い方だと、他にも言い方があるようだったが、
「まぁ、詳しくは言えないよ。」
と、短くそう言った。
次に疑問に思ったのが、何故僕を捕まえたかだ。
僕を捕まえるにしても何かしらの理由があるはずだ。
「何の用があってこんなマネするんですか。」
「何の用、ねぇ。」
男はそう呟いて、僕の方へ顔を近づけてくる。
「そりゃぁ、沙耶香の事に決まってるでしょ。」
「・・・柳原さんの事?」
「そう。あの日、僕と君達が街で出会った時、沙耶香が最後に接触したのは君だ。」
「・・・。」
「話してくれないかなぁ、沙耶香の居場所を。」
「!?」
一体どういうことなのだろうか。柳原さんはあの日、この男の元に戻ったのではないのか?
少なくとも今の男の言葉からすると、柳原さんはまだ無事に逃げているのだろう。それがわかると、少し安心する。
しかし・・・ここで僕が知らないと答えてしまうと、男は次の手を打つに決まっている。
こんな所で時間を稼いでも仕方ないと思うが、一分一秒でも柳原さんが遠い所へ逃げれるようにしなければ。
「・・・。」
「だんまり、か。」
「・・・。」
「はぁ全く、最近の子供ってのはぁどうしてこうも捻くれてんのかねぇ。」
男は苦笑して同じベッドの上に腰掛けた。
「捻くれている? あなた達大人が歪んでいるからそう見えているだけでしょう。」
鼻で笑って、そう言ってやった。すると男は
「そうかもなぁ」
と言って笑った。不快には思わないのだろうか。
「・・・。」
再び僕が黙秘を続けようとした時だ。男がポケットから1つ飴を取り出した。
「そうだ、僕の名前を言ってなかったね。」
「・・・。」
「僕の名前は柳原 玲二。沙耶香の父親だ。」
「えっ、ちょと、それはどういう―――」
僕の慌てっぷりにも何の反応も示さず、話を続ける男。
「今回、君を拘束するという強硬な手段を取ったのは、僕の任務に変更があったからなんだ。」
「変更?」
「そう。今までの任務は、沙耶香の捕獲だ。彼女は”兵器”として”できそこない”でありながら、
たった一つのサンプルでもあった。つまり、今後の研究のためにも、彼女の存在は不可欠だったんだ。」
「そんなことより、その任務の変更って、どういうものだったんです?」
「それは、沙耶香の抹消だ。」
「抹消―――」
その普段は聞きなれないあまりにも物騒な言葉を、確認するように口にする。
抹消・・・それは、彼女を殺すという事に他ならない。
「数日前、海外の研究所にてで完全なる”兵器”が誕生した。感情も普通の人間と何等変わらない、
どう見ても人間のような、殺戮兵器がね。記録では実験中に山を一つ、吹き飛ばしたそうだよ。」
「山が、吹き飛ぶ!?・・・あ、それより、じゃぁ柳原さんは!」
「そう。数日後には正式にその兵器もどこかの戦場へと投入するし、量産の目処もついている。
もう我々にとって”ただのできそこない”である彼女は邪魔なだけなんだ。」
「そんなっ! あんたは柳原さんの親なんだろ! よく、よく娘を平気で殺せるな!」
その言葉に、男は肩を落とした。
「そうだな。僕は最低の親だ。」
男は体を震わせ、泣いていた。今までの笑顔はどこかに消え去り、大粒の涙が流れ出ていた。
「こんなつもりじゃなかった・・・。沙耶香を兵器にするつもりも・・・でも、仕方なかったんだ。
沙耶香がこの世に生まれて来た時、あの子の呼吸は既に停止していたんだ。」
男は少し間を置いて、こんな事を聞いてきた。
「君の学校に、大神田 沙紀という教師が居るだろう。」
突然出てきた名前に驚きながらも肯く。
「彼女が、あの子の母親だった。」
「えっ!?」
「沙耶香が死んでいると分かった時、彼女は僕にこう言ったんだ。何とかしてくれって。
どんな手を使ってもいいから、あの子を助けてくれって・・・」
「で、でも死んだ人間をどうにかするって、そんなこと!」
「僕は当時、既に人間を兵器にする実験を幾度となく行っていた。数千回に及ぶ実験で、必ず成功する確信もあった。
だから僕はこの手で、この手で・・・」
「柳原さんを?」
「そうさ。その結果が・・・アレだ。」
しかし、今まで柳原さんを見ていても兵器だとは思わなかった。僕には普通の女の子にしか見えない。
一体彼女のどういう所が兵器で、できそこないなのだろうか。
「一体、彼女の何がいけなかったんです?」
「確かに、沙耶香を兵器として使用する面では問題ない。君ももう気付いているだろう?
彼女には、人の精神に潜り込む事ができる力があるんだ。記憶の操作なんかはいい例だ。」
「やっぱり、あれは―――」
「でも、でも彼女はその力の使用頻度に比例して自分の寿命を削るというリスクを負った。
これでは、兵器としての意味がなかったんだ。これが、彼女が”できそこない”という理由だ。」
柳原さんが兵器として生まれた理由、そしてできそこないという理由はわかった。
でも、僕にはそんな事どうでもよかった。僕が聞きたいのは・・・
「あなたは柳原さんの親だろう、なら何故、彼女を助けてあげないんだよっ! 
あんたにはその力があるじゃないか!!」
この男には力がある。自衛隊を動かせるような巨大な力が。
しかし、僕は肝心な事に気付いていなかった。
「その自衛隊を動かせる力を持っているのも、この組織のお陰さ。」
「あ・・・」
「あの子が・・・沙耶香が生きてくにはこの世界には辛い事が多すぎる。
僕が彼女を兵器として造ったばかりに・・・。僕が動かなくても、いずれ他の連中が必ず
あの子を殺すだろう。」
「・・・。」
「こんな僕でも、あの子の親なんだ。あの子を産んだ責任は、僕が取らなければならない。」
「そんな・・・他に方法はないんですか!?」
僕のそんな言葉に、男は絶望するように、いや自分の非力さを自嘲するように笑いながら言った。
「それは、僕1人が動くには、この組織は大きすぎる。今や全世界に支部を持ち、情報の
ネットワークを隅々にまで張っている。武力も相当なもんさ。
今僕達が動けば、この不安定な世界なんて一瞬で崩れ去るくらいにね。」
「・・・。」
「全ては、仕方ない事なんだ。だから、僕はあの子を殺して、自分も死ぬ。」
「そ、そんなっ!!」
男は素早く立ち上がり、コートの内側から取り出した拳銃の銃口を僕の頭に突きつける。
「お願いだ。彼女の居場所を教えてくれ。でないと、君まで殺すことになる。」
「・・・。」
僕を囮に柳原さんを呼び出すということだろうか?しかし、僕の気持ちは、変わらなかった。
僕はもう逃げないと決めたんだ。自分の今できることをやり通す。
それが、柳原さんに対して僕にできる精一杯の事だから。
どんなに寿命が短くても、彼女には普通の子として生きて欲しい。
普通の子として死んで欲しい。できれば、もう一度会いたいけど・・・。
「・・・。」
「・・・。」
男と僕の目線がぶつかり合い、しばらくの沈黙。
やがて、僕が折れない事を悟った男の顔に笑顔はなくなっていた。
「・・・残念だよ。でも、僕は必ずあの子を探し出し、殺す。絶対に。
君という彼女にとって大切な人を人質にしてでもね。」
あぁ、僕もここまでか。
そう思って、目を瞑った時だった。

ゴゴゴゴゴゴ!!

いきなり、大きな地震が僕達を襲った。
「な、なんだ!?」
男は慌てて壁に取り付けられていた電話の受話器を取る。
「おい、監視室、今のは何だ!?」
『じ、地震のようです。収まったようですが・・・ん、あ、あれはなんだ・・・女の、子? 
う、うわ、ああああぁぁあああひぃぃぃぃっ!!』
受話器から、男の断末魔が聞こえてきた。
女の子? それを聞いた時、嫌な予感がした。
「おい、監視室! 監視室!!」
『―――』
男が必死に呼びかけるが、既に応答はない。
そして、再び激しい揺れが僕達を襲う。

ゴゴゴゴゴ!!

男はポケットから携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。
「・・・おい、私だ! そうだ! 一体この施設に何が入り込んだ!」
『か、髪の、長い・・・、女・・・ひ、ひぃぃゆ、許してくれ、許してあああぁぁあっ!!』
携帯電話の向こう側から返ってくるのも、先程と同じ断末魔だった。
「髪の長い、女の子?」
僕は確信した。彼女だ。
「くそっ!」
男は携帯電話を床に叩き付けた。
そして、三度目の激しい揺れ。

ゴゴゴゴゴ―――

しかし、今度はそれだけでは終わらなかった。
巨大な爆発音が聞こえ、僕達の居る部屋の壁に大きな穴が開いた。
部屋には黒煙が広がり、視界が悪くなる。
「・・・。」
聞こえる。足音が。
穴の開いた壁の向こうから。
「来たな、沙耶香!」
男は足音に向かって銃を構えた。
黒煙の中から現れたのは、やはり柳原 沙耶香さんだった。
だが、もう彼女は以前の柳原 沙耶香ではなかった。
感情の欠片も無い無機質な表情に、青白い肌。
目は真紅となり、以前の艶のあった黒髪は今や、白に染まりきっていた。
まるで、別人だ。僕は、彼女の姿を見て安堵するよりもまず、悪寒を感じた。
今の彼女からは何か不吉なものを感じる。
「沙耶香、それ以上動くなっ!」
男は叫ぶ。
「大人しく、死んでもらう!」
しかし、柳原さんは何の躊躇もなく再びその一歩を踏み出した。
「返して・・・。壱畝君を、返して。」
「動くなぁっ!」
男がそう叫ぶと同時に、銃口から一発の弾丸が発せられる。
その銃弾は、柳原さんの左胸を貫通した。
軽い衝撃に、痙攣をひきおこしたように震える柳原さん。
「沙耶香!!」
僕は、無意識の内に彼女の名前を叫んでいた。彼女の元に走り寄ろうと立ち上がるが、
腕の太い鎖のせいで僕はベッドの上から動く事ができなかった。
「は、ははは・・・これでいいんだ。これで。安らかに眠れ、沙耶香。」
そう言って、男は自分の頭に拳銃を突きつける。
しかし、男は拳銃のトリガーを引かなかった。何故なら・・・目の前で、沙耶香が不気味に」笑っていたからだ。
「あは、あはは・・・はは・・・」
沙耶香の赤い瞳が男を捕らえる。
「よりにもよって、銃? 傑作ね。」
「そ、そんな・・・」
沙耶香が男に一歩、歩み寄る。
「こんな体にしたのは、誰?」
「う・・・」
また一歩、歩み寄る。
「こんな力を持たせたのは、誰?」
「うぁああぁあ・・・」
「あなたは知らないでしょうけど・・・できそこないだと思って、甘く見ないで。」
男の様子がおかしい。持っていた銃を足元に落とすと、自分の頭を抱え込んだままその場にしゃがみこんだ。
「呪ってやる、あなたは、絶対許さない。
死ね、死ね死ね死ね死ね死ねシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ」
もう、沙耶香の顔に以前の笑顔はなかった。
今はただ、人形のような無表情で、壊れたテープレコーダのように
ただ同じ言葉を繰り返しているそれは恐ろしい”兵器”の姿だった。
そこに人間らしい表情や仕草など、一切ない。
ただ、殺すことだけを考え、殺すことだけを思い続けてひたすら口を動かし続ける。
「や、やめろっ、やめてくれ、あ、あああああぁあっ僕の、僕の中に入ってくるなっ、
ひ、ひぃあああぁあぁああぁああっ!」
男の表情は苦痛に歪み、手で覆って爪を立てた顔からは血が流れ出していた。
「シネシネシネシネシネシネシネシネシネ―――」
「あああああぁあああっ」
もう、男は壊れていた。僕はそこでやっと正気を取り戻す。
どうにかして、彼女を止めなければ。でも、どうやって。
彼女の口は機械のように規則的に動かしているだけだ。
「沙耶香・・・」
もうどうしていいかわからない。
もう、全てが遅かったのかもしれない。
でも―――それでも、やっぱり僕は彼女の事が好きだから・・・
「沙耶香ぁぁぁぁぁっ!!」
大声で、彼女の声を叫んでいた。
「っ!」
彼女の体が一瞬だけ、電気の走ったようにビクッと震える。
もう、彼女の口は止まっていた。
「はぁ・・・はぁっ、ひぃぃっ!!」
息を切らし、怯えながら沙耶香の元を離れる男。
どうやら間に合ったようだ。だが、男の方も既にまともな精神ではないだろう。
男は壁の隅でうずくまりながら、大声で泣き出した。
「・・・壱畝君。」
「沙耶香。」
髪の色も、目の色も変わってしまったけど、その美しさだけはかわらなかった。
出会った時のままの、とてもかわいい女の子だった。
「久しぶり、沙耶香。」
「壱畝、君・・・」
沙耶香は、何も言わずに僕の手に繋がれた太い鎖を手に取ると、それを引きちぎった。
「うわっ!?」
僕の驚く顔を見て、沙耶香は苦笑した。
「あはは、やっぱり、驚いた?」
「え、あ・・・その・・・沙耶香は、人の精神に入り込むだけじゃ・・・」
「違うわ。私は造られた人間だもの。心臓はあるけど、骨や筋肉は普通の人より少ないし・・・。
元より私は試作で、いつ変質するかわからない体なの。」
そう言って、壁際でうずくまっている男の方に目をやる。
「あの人が私をこんな体なんかにしなければ、私は、私は・・・!」
「それは、違うよ・・・。」
「壱畝君?」
「君のお父さんは、君を助ける為に、辛い思いで君をこんな体にしたんだ。
その行為は決して許されるものじゃないけど、全てを否定しちゃいけないよ。」
「なんで、私を止めたの? 私は、この人を殺したい・・・。」
「ダメだ。そんなことすれば、君は絶対後悔するから。
そんなことをすれば、君は本当に普通じゃなくなってしまうと思うから・・・。」
「・・・。」
「行こう、沙耶香・・・。」
僕は、涙を流す沙耶香の肩を押して歩き出した。

◆

僕達が居たのはあの男の言う通り、精神病院だった。
街の西側には山がいくつも連なっており、その山奥には昔から精神病院がある。
まさか、こんな所に連れて来られているとは思わなかった。
寝ていた時に襲われたため服装も学校の体操服で、腕時計もしていなかったため、今が何時かもわからない。
空を見上げると、夕日が空を朱に染めていた。
どうやらあれから結構な時間が経っているようだ。
山道を下りながら、隣を歩く沙耶香の方を見てみる。
長い白髪は風に靡き、紅い瞳はずっと先の遠くの方を見ていた。
沙耶香の表情を見ると、かなり疲れているのが一目でわかる。
やはり、あの男の言う通り力を使ったために生じる短命化が原因なのだろうか。
やがて僕の視線に気付き、沙耶香が僕の方を見る。目と目が合うが、
何を話していいかわからない僕はこう言った。
「髪、白くなっちゃったね。」
「・・・うん。」
柳原さんは微かに笑みを浮かべながら小さく肯いた。
「大事な髪だったんだけどな・・・。」
「うん。」
「私はもう殆ど生身の体じゃないから・・・。心臓と、この髪くらいだから。」
「え・・・」
「脳は生まれた時に、体は私が幼い時に、失ったから。今は擬似的なものを使ってるわ。」
沙耶香は服のポケットから小さなナイフを取り出すとそれを左手首に当てて、静かに引く。
「ちょ、ちょっと! そんな事!!」
しかし、傷口から血が吹き出る事はなかった。
本来、手首を切ったなら天井まで届く勢いで血が吹き出ると聞いたことがあるが、
沙耶香の傷口からは一滴の血も流れなかった。
その代わりに、少ししてから茶色くてドロッとした何かが少し出てきた。
それは手首の傷口を覆うようにして広がっていき、やがては傷口全部を塞いでしまう。
「ね? 私にはもう赤い血すら流れていないの。」
「・・・。」
僕は言葉を失った。かける言葉が見つからない。なんて言えばいいんだ。

僕達は山を降り、学校へとやってきた。
校庭に入るが、既に生徒は1人も居なかった。
当たり前か。空はもう朱色と紺色が混ざり合っていた。おそらく時間にして6時半頃だろう。
学校の校庭まで来ると、急に安堵を覚えて体が重くなることを思えばよほど緊張していたのだろう。
「はぁ・・・。」
沙耶香は何も言わず、ただ校舎の方を眺めているだけ。
そうだ、これで終わりじゃない。僕は言わなければならない。
「沙耶香、聞いてくれ。」
「・・・?」
首をかしげながら、僕の方を振り向く沙耶香。
「君が居なくなって僕は初めて気付いたんだ、君の存在の大切さに。この数日間、ずっと沙耶香の事を考えてた。
君の笑う顔がずっと頭の中で浮かんで・・・だから―――」
しかし、僕は最後まで言えなかった。
沙耶香は涙を流しながら、耳を塞いでいた。
「やめて・・・聞きたくない、聞きたく、ないよ。」
僕は耳を塞いでいる手にそっと触れると、その手をどけた。
「お願いだ、聞いてくれ。」
「ダメ・・・私には、私には無理! 私は人間じゃないもの! 普通の子じゃないもの!!」
「かまわないさ! 君が兵器だろうと何だろうと・・・僕は何時の間にか君に惹かれてたんだ。
そして僕な中での君は、永遠に君だ。兵器じゃない。だから・・・僕は、君が好きだ。」
「う、うぅ・・・くっ・・・うぅ」
沙耶香は力が抜けたようにその場に膝から崩れる。次々と流れる涙。
そんな沙耶香を僕は慰めることもできずに、ただ立ち尽くすしかなかった。
僕には、彼女が感じる苦痛も、重さもわからないから。
「私も、私も壱畝君の事が好きだった。でも、無理だよ。私には・・・」
「無理じゃない・・・無理なもんか。皆と一緒に遊びに行った時も、君は普通の女の子だったじゃないか。」
「私は、私は・・・」
「・・・。」
「・・・。」
少し間を置いて、彼女は静かに立ち上がった。そして、返ってきた答えは―――
「ごめんなさい。」
彼女はもう泣いてはいなかった。
「でも! ・・・そう、か。そうだよな・・・沙耶香がそこまで言うなら・・・」
沙耶香は僕に背を向ける。このまま、またどこかに行くのだろうか。
そんな事をふと思った時だ。彼女が背を向けたまま、こんな事を言った。
「これからも私を狙って、あの男の仲間が私の命を狙って追いかけてくる・・・だから、
私は逃げようと思うの。どこか、遠い国に。」
「そう、なんだ。」
「それで・・・もし1年後、この日のこの時間に私が無事ここに戻って来れたなら、
その時は私も少しは強くなっていると思うから。だから、もし壱畝君がいいなら、1年後にまた会えるかな?」
「・・・わかった。待ってる。僕はずっと待ってるよ。」
学校の校舎の時計の針は、6時48分を指していた。
1年どころか2年でも3年でも、僕は待ち続ける。
ずっとずっと、君を待ち続けるから。だから今は―――
「気をつけてね。」
「・・・ありがとう。」
その一言を最後に、沙耶香は走り出した。
彼女は走る。こちらを振り返らず、ずっと、ずっと。
「・・・また、1年後。」
校庭で1人になった僕は、そう呟いていた。
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